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――その夜、機嫌が良かったのは、たまたま入った小屋が当たりだったせい。 ――火照った躰を冷ますため、あたしは柄にも無く月光浴と洒落込んだ。 ライブ帰りに公園で変な奴を見つけた。 変な奴だが、危ない奴じゃなさそうだったので、声を掛けた。 「使い方、教えてやろうか?」 「――――え?」 そいつは緩慢な動作で振り返った。 眼鏡の奥の茫洋な視線、それを除けば根っからの善人面だった。 「これは自動販売機――自販機と言ってね、一個買うごとに品を取り出すのが正しい使い方だ」 何の冗談か、取り出し口には、いっぱいに缶が詰まっていた。 「ん――ああ、そうだね。取り出さないと……」 「……コーヒーが好きなのか? カフェインジャンキーってやつ?」 「いや、どちらかと言えば、日本茶の方が好きだな」 「ふーん、じゃあ、あたしと一緒だ」 では一体、この缶の山はどういったジョークなのか。 味に拘りは無いようだが、そのどれもがコーヒーだった。 そいつは詰まった缶を取り出すと、再びボタンを押し始めた。 ガコン、ガコン、ガコン、ガコ、ガ、ゴ………… 「……おまえ、あたしの言ったこと聞いてたか?」 「ん? ああ、取り出さないとね」 馬鹿にされているかと思ったが、すぐに否定する。 そいつからは、そういった捻くれた感情は読み取れない。 自販機の前には、すでに抱えきれぬ程の缶が並んでいる。 興味に負けて尋ねてみた。 「これ全部、おまえが飲むのか?」 「いや、さすがに無理だね」 気が済んだのか、それとも軍資金が尽きたのか、そいつは買うのを止めて戦利品を見下ろす。 それからこっちに向き直り、そこで始めてあたしに気付いたような顔をした。 「ええと――飲む?」 「はは、今までで一番クールなお誘いだ」 Coffee Night in the Sugar pot 戦利品を近くに落ちていたコンビニ袋詰め込み、ベンチに移動。 そいつは黙って缶を取り出し、あたしに差し出してきた。 受け取るとブラックだったので、勝手に別のと取り替える。 そいつは何も言わなかった。 会話は無い。ちびちびと黒い液体を啜る。 深夜の公園、薄暗い街灯の下、静寂、切り取られた世界。 どういう風の吹き回しか、沈黙を破ったのはあたしだった。 「しかしアレだ。これだけ食生活が豊かな現代において、何だってこんな不味い物を飲むんだろうね」 「ゴメン。コーヒー嫌いだった?」 「ああ、大ッ嫌いだ。きっと一生掛かっても相容れないね」 言い捨ててもう一口飲む。不味い。 コーヒーの正体はニコチンとアスファルトのカクテルだと言われても信じる。 苦いくせに甘くて、後味も悪い。胃に入っても自己主張をするから最悪だ。 おまけに中毒性があるから救えない。 「もう一本もらうよ」 どうせ味の違いなど分からないので、どれでも良い。無論、ブラックを除いてだが。 テキトーな一本を手に取りプルタブを引くと、ぱしゅ、と間抜けな音がした。 どこまでも最悪だ。 男はすでに二本目を空け、空いた缶を手の中で転がしている。 「確かに美味しくないね。おかしいな……あの時は、もっと美味しく感じたんだけど……」 「感じただけだろ? コーヒーの味は変わらないよ」 感覚というのは、その時の状況に大きく左右される。 美味しいと感じたのならば、それはきっと、こいつにとって望ましい状況だったのだろう。 逆に言えば、今の状況はこいつにとって、そういう状況だ。 「なるほどね」 男は得心がいった顔をして三本目に手を伸ばす。 ブラックを避けたように見えたが、実際のところは分からない。 「――その時は、独りだったのか?」 「いや、二人だった」 「女?」 下品な質問は苦笑で否定された。 少し躊躇った後に出たのは、 「親友だった」という、過去形の答え。 その瞳があまりに寂しそうだったので、些細な言い回しに気づかなかったフリをした。 「その時も、こんなに買ったのか?」 「……うん、そいつが買ったんだ」 もっとも、ここまで多くは無かったけどね、とそいつは付け足した。 「なあ――、」 どうして、と訊きかけて止めた。 あるいは、なんで、だったのかもしれない。 他人に干渉するのは、あたしの性分じゃない。 だと言うのに、頭の中で疑問視がぐるぐると廻る。 だと言うのに、胸の奥で必死に騒ぐ何かがいる。 何度か口を開きかけたが、質問は結局カタチを成さなかった。 口をつぐみ、代わりにそいつの瞳を覗き込んだ。 そんなあたしの様子から何を汲み取ったのか、そいつは、ぽつり、と呟いた。 「大切な人が、大切な人に殺されて……もう一人、大切な人がいたんだ。どうすればいいかな?」 すべてが抽象化された台詞。 そこに籠もる想いは確固たるカタチを持っている。 「――それは、何かの比喩か?」 「うん……まあ、そうだね」 そいつは、寂しそうに笑った。 なるほど――失言だった。 「――大切な人、か」 当然、その大切な人の中に、あたしは入っていない。 当然だ、さっき顔を合わせたばかりだというのに。 何を考えているだろう。あたしも焼きが回ったもんだ。 「大切な人が、大切な人に、大切な人、ね……」 ――そしたら――そしたら、 「そしたらまあ――」 ――――それなら――!! ……………… ………… ――結局、あたしはプライドを優先させる。 「まあ……夜中に一人で、バカみたいに缶コーヒーを買うしかないだろ?」 きょとんとした表情。 それもすぐに柔らかな微笑みに変わった。 「……うん、その通りだね」 しばらく頭の中で咀嚼していたようだが、何故かツボに入ったらしく、大げさに笑い出した。 それがあんまり楽しそうだったから、こっちもつられて笑ってしまった。 ひとしきり笑った後、コーヒーを飲み干した。すっかり冷め切っている。 男も三本目も空にしたらしく、四本目に手を伸ばした。 「そうだね。コーヒーでも買うしかないね」 缶を開けることはせず、転がして遊ぶ。 男に倣って、あたしも三本目を転がして遊んだ。 男の視線の先、そこには何があるのか。 薄暗い街灯の下のベンチ、その切り取られた夜陰で俯く姿。 それはまるで教会の一室、沈黙と雄弁と後悔と無恥なる赦しに彩られた懺悔の部屋。 ――ただひとつ、決定的に違うのは、 男が望んでいるのが免罪ではなく、その重い罪を背負っていく断罪であるということ。 その先にあるのは、自らの破滅。 そして、それ以上に哀しい――孤独な終焉。 傷ついて今にも崩れ落ちそうな姿でありながら、 なのに何故、その瞳は、そんなに穏やかなのだろうか。 瞳が示すのは、男が独りで生きていけるという強さ。 そして瞳の奥に閉じこめられた、独りでしか生きられないという哀しさ。 その沈黙があまりに寂しかったから、 「けどそこに――」 言うつもりの無かった続きのセリフを言ってしまった。 「――――お節介な女が通りかかったら、そいつの胸を借りて泣くってのもありかもな」 髪を束ねていたゴムを外し、男の前に立つ。 逆光で、表情は見られないだろう。 こんな顔――見られたら困る。 「貸してやるよ。まあ、なんだ……大きさとか柔らかさとかは期待するなよ」 それは男の覚悟を侮辱する行為。 それでもあたしは厚かましくも、この人に、一時の休息をと願ってしまった。 彼の意志を無視した、あたしの独善的な醜い願望。 今この時だけで良い――あたしが彼を赦してあげたい。 呆然とあたしを見上げていた男は、やがて哀しそうに俯くと、身体を前に倒し、あたしの胸元に頭を沈めた。 肩に手を回し、小さいころ母にされた様に、優しく撫でてやった。 ――缶コーヒーの数本で売られるとは、我ながら可哀想な胸だと思う。 照れ隠しと、何より自分の罪から顔を背けるために、 「まだ大事な奴は二人も残っているんだろ? 今度はそいつに貸してもらえよ」 そんな心にもない台詞を説いた。 コーヒーは嫌いだ。 ――人を偽善者にするから。 夜は嫌いだ。 ――人を偽善者にするから。 でも――――偽善者は嫌いじゃない。 そんな自分自身が、ちょっと嫌いだ。 男が腕を回してくる。 掻き毟る、というような、荒々しい締め付けだった。 まるで何かを離すまい、というような。 それは、何かを離してしまった者の後悔なのだろう。 あたしも強く抱いてやった。 男の肩が震えているのが、はっきりと感じられた―――― ◇◆◇ そして、手に残ったのは冷め切った一本の缶コーヒー。 いったい、離したくなかったのはどちらだったのか。 出会ったのは偶然――ならば別れるのは必然。 苦笑。もう会うこともないだろう。 見上げると蒼い月が静かに輝いている。 ――ああ成る程、これのせいか。 あたし同じ名前で、まったく異なる姿を持つ夜の主。 男の瞳を思い出す。 揺れるような瞳は、頭上のそれと同じ輝きを持っていた。 ――だからだろう。 あれは月が魅せた幻だ。 ――あいつもこれに魅せられたのだろうか。 「ったく、覗き見してるんじゃねーよ、変態」 反論はなかった。 プルタブを引く。 間抜けな音も心地よい。 口に含んでから、それがブラックだったことに気付く。 思わず吐き出しそうになったが――なんだ、意外と悪く無いじゃないか。
We must say good-bye. This is the break time before that or after that. |