――初めて『起きた』その時、目の前にいたのは仰々しい長衣に身を包んだ老人の姿だった。
わたし自身へと向けられた、静かな眼差し。
彼は、何を言うでもなく、ただ起きたばかりのわたしを見つめていた。
対して、わたしが考えていたのは彼が何者かということ。
何も知らない、全てが白紙同然だったわたしには、目の前にいる老人が自分とは『違う』という事ぐらいしかわからなかった。
――ただ、何かを言われる訳でもなく、見つめられる。それが、不快ではなかった。
どれ程の時間そうしていたろうか。
不意に、その不思議な時間は破られた。
老人の後ろから現れた、わたしと『同じ』、でも『違う』者達。
後は、もう老人が前に出る事はなかった。
代わりに前に出てきた者達に色々な事を教えて貰う。わたしは名前、わたしの素性、わたしの役目……。
……そして、最後にそれまでの間ずっと後ろに控えていた老人の名前を教えて貰った。
二つに分けられたわたしの名前に対し、三つに分けられたその名前。
――○○○○=○○○○○=○○○○○○○。
彼の名前は、外界から戻った後に『記録』を洗い流される際も、『記憶』に残される数少ないモノとなる――。
『月翁来たりて』 第一話
――空が、高い。
雲一つない快晴のせいもあるだろうが、その澄みきった青は、どこまでも上へと続いていそうな錯覚を覚える。
現実には、たかだか十キロにも満たぬ空間だというのに、上に広がる世界は、そんな知識を跡形もなく吹き飛ばしてしまう。
そんなどこまでも続く『青』を見上げ、遠野志貴は通学路を歩いていた。
「ふわ……」
ふと、あくびが漏れる。
朝方ならいざ知らず、下校時にあくびが出るのは自分でもどうかとは思うのだが、つい二週間前まで、『夏休み』という名の長い長い休みを甘受していたせいか、どうも休みボケが抜けてくれない。
まぁ、明後日は日曜日。
明後日だけは、こんな気怠い感覚を抱えて学校に行かなくて済む――そう思うだけで、気分も幾らか晴れようというものだ。
「……さて、今日はどうするかな?」
歩きながら、そんな事を考える。
普段ならこのまま家へ帰る所だが、このところ、気怠さも手伝ってアルクェイドのマンションに行くのもご無沙汰している。
彼女の日課である夜中の散歩には付き合っているが、あの我が儘なお姫様の事、日中の来訪がない事にそろそろ文句の一つでも言ってくるかも知れない。
その辺を考えると、今日はこのままご機嫌取りも兼ねて、アルクェイドのマンションにでも寄っていくべきか――。
と、その時、不意にその声は俺の耳に飛び込んできた。
「――しーきー。やっほーい」
のーてんきかつ親しげなその声に、視線を声のした方へと向ける。
視線の先には、これまたのーてんきな笑顔。
そう、くだんのお姫様――アルクェイドが、ぱたぱたと手を振りながらこちらに歩いてきていた。
「…………」
噂をすれば影。
予想通りというか、やはり辛抱しきれなくなったらしい。
一応、学校がある日は通学路には来るなと何度も約束したはずなんだけど……。
俺はため息を一つ付くと、にこにこと笑いながらこちらへと歩いてくるアルクェイドに視線を向けた。
本来なら約束を破った訳だし、怖い顔の一つでも作らねばならないのだが、遭遇が絶妙のタイミングだったためかどうもその気になれない。
自ずと、苦笑めいたものを浮かべてしまう。
そんなこちらの内心など露知らず、目の前まで来たアルクェイドは満面の笑顔で口を開いた。
「はろー、志貴ー。ぐーぜんだね、ここで会うなんて」
「ああ、そーだな」
投げやりに応じる。ここに来てる時点で偶然もへったくれもないのだから仕方ない。
同意したのでそのまま上機嫌で続けると思ったのだが、こちらの言い方で察したのか、アルクェイドの笑顔は急速に萎んでいく。
「……あ。やっぱり怒った? 約束を破ってここに来たの」
今までの態度が嘘のようにしゅんとなるアルクェイド。
わかってるなら、来なきゃいいのに――と思わないでもないのだが、だからこそのアルクェイドなのだろう。
それは、約束を破っても、結局はすぐに許してしまう自分にも要因があるのだし。
「いや、今アルクェイドのマンションに行こうかと思ってたから、噂をすれば影だなと思ってさ。まぁ、気にしなきゃいけないんだろうけど、今回に限っては約束を破った事については気にしてないよ」
「ほんと? ……よかったぁ」
途端、アルクェイドが嬉しそうに微笑んだ。
……この辺、本当に見ていて飽きない。思わず、こちらの頬も緩んでしまう。
それでも、図に乗られては困るので釘だけは刺しておく。
「……でも、今日が例外なだけだからな? もし、お前とこうしてるトコを他の奴らに見られたら俺だって困るんだから。だから、基本的にはここで待ち受けるのは却下だぞ」
「むー、わかってるわよ。……でも、最近志貴ったらマンションに寄ってくれないし、今日は居ても立ってもいられなくなっちゃって」
「いや、それは俺も悪いとは思うけど……って、何かあったのか? とりあえず聞いてやるけど」
「えっとねー」
話を聞いてもらえるのが嬉しいらしく、アルクェイドは上機嫌で口を開く。
「お昼に、テレビのドラマを見てたんだけどね。それの一シーンで男の人と女の人がヤックでこー向かい合ってるの。それで、男の人と女の人がじゃれ合って――」
「――わかった。それに洗脳されて俺とでやってみたくなったと」
「あったりー」
にこにことアルクェイド。
こちらとしては、その返事と笑顔にちょっと頭痛を覚えたり。
「とゆー訳で、志貴。今からヤックいこうよ、あたしがおごったげるから」
「む。おごり……か」
思わず、真顔になる。
なんともお馬鹿な話だが、その特典は実に魅力的だ。
遠野家に移って早一年近く。相変わらず秋葉の奴が小遣いをくれないものだから、家計はいつも火の車。まとまった臨時収入でもない限り、ヤクドナルドなんてとても行けるものではない。
あのヤックのハンバーガーをただ食い出来るのなら、アルクェイドの我が儘に付き合うのもいいかも知れない。
……食い物で吊られてる辺り、男として少し悲しいものがあるけれど。
「うーん、それならついて行ってもいいかな。この所ヤクドなんかご無沙汰してたし」
「ほんと? それじゃ、早速――」
「――待ちなさい」
不意に、お馴染みの声が割って入った。
俺とアルクェイドは、ほぼ同時に後ろへと振り返る。
「あ、でか尻シエル」
「何がでか尻ですか。このあーぱー吸血鬼」
アルクェイドの反応に冷ややかな返答。そこには、シエル先輩が腰に両手を当てて立っていた。
「先輩……何か御用ですか?」
「ええ。お給料が入ったので、遠野君に日頃の感謝を込めて食事のお誘いなどを。……まさか、このあーぱー吸血鬼とかち合うなんて思いもよりませんでしたが」
俺に向けられた笑顔から一転、アルクェイドへ険悪な表情。
アルクェイドもまた、先輩程ではないにしろ、微かにその形の良い眉を持ち上げている。
それにしても、先輩も食事のお誘いとは……どうせ、カレー専門店なんだろうけど、ヤックよりも豪華なのは確かである。
少し、心が揺らぐかも。
などと考えている間に、アルクェイドと睨み合っていた先輩がひょいっ、と俺の腕に手を回して口を開いた。
「――という訳で、遠野君はわたしとメシアンに行くんです。あーぱー吸血鬼は一人寂しくヤックのジャンクフードでもかじってなさい」
「むか。何よ、いきなり出てきてその言い草は」
アルクェイドは、負けじと俺の空いていたもう片方の腕に手を回す。
俗に言う、『大岡裁き・どっちの子供?』状態。
……顔見知りに見つかったらただじゃ済まない光景だな、オイ。
「シエル、今日はわたしが先約だよ? 逆の展開ならともかく、横からかっさらおうなんて感じ悪いんじゃない?」
「確かに、それは言えるかも知れませんね。しかし、『埋葬機関』の一人として、一人の人間として、親愛なる友人があーぱー吸血鬼に籠絡されようとしているのを、黙って見ている訳にはいきません」
「うー……あー言えばこー言うし。じゃあさ、シエルも一緒に行く?」
「は?」
あ、先輩の目が点になった。
「……どうしたの?」
思わぬ提案を申し出た張本人は、先輩の反応をキョトンとした眼差しで見つめている。
「そりゃあ、アルクェイド。先輩としても、ケンカしてる相手にいきなり誘われたら戸惑いもすると思うぞ」
「んー、だって力ずくでぶっとばしても懲りずについてきそうじゃない。もしあっちでケンカなんかになったら志貴が怒るだろうし、それならいっそのこと一緒の方がいいかなーって」
計算尽くの行動――というより、俺の反応を考えて導き出した考えらしい。
一方、先輩の方はなんとも複雑な表情を浮かべていた。
まぁ、割って入ったら逆に誘われたなんて事になったらこんな表情も浮かべたくなるだろう。
しかし、こちらとしては最良っぽい展開のようなので、俺からも取りなす事にした。
「アルクェイドもこう言ってることだし、今日の所は先輩もどうですか? 今なら、『カレーバーガー』なんてのも出てるらしいですし」
俺の取りなしが幸を奏したのか、複雑な表情を浮かべていた先輩もコホンと咳払いをして口を開く。
「……し、仕方ありませんね。貴方みたいなあーぱーに誘われるのは不本意ですが、遠野君もこう言っている事ですし、付き合わせていただきます」
「不本意なら、別についてこなくていいのに」
せっかく収まりそうな所に、いらんことを言うアルクェイド。
それに先輩は眉を吊り上げたが――その眼差しが、急にある方向で固まった。
「……先輩?」
「どうしたの、シエル?」
二人して問いかけてみるが、反応がない。
……顔が引きつっている。何か、信じられないものを見つけたかのように。
先輩の様子に、俺とアルクェイドもそちらへと視線を向ける。
「あ……」
先輩の視線の先には、黒いコートに身を包んだ年配の男性が立っていた。
背が、高い。軽く見積もっても百八十はあり、道行く人達の中でも一際目立つ。
肩幅も広い。コートのせいで体型そのものはわからないが、コートが形作るラインから均整の取れたものと思われた。
で、そんな身体に乗っかっている頭だが、たてがみのような白銀の頭髪に豊かな顎髭を蓄えた、年の頃七十前後と思われる老紳士のものだった。
ただ、その眼差しは鷹のように鋭く、視線はこちらへと向けられている。
今は遠くからだからいいが、もし近くであの紅い瞳で睨まれたらたちまちの内に――紅い?
「お、おい、アルクェイド。あの人って、もしかして――」
「…………」
「――って」
それが意味する事に、慌ててアルクェイドへと振り返り――俺は呆気に取られた。
アルクェイドは、呆然と老紳士を見つめていた。
まるで頭の中が真っ白になってしまったかのような、そんな表情。
今まで見た事もないその顔に、俺は言葉を失う。
「ゼ、ゼルレッチ師……」
「えっ?」
先輩の口から漏れた呟き。
しかし、それは意識してのものではなかったようで、先輩は顔を引きつらせたままアルクェイドに問いかけた。
「……アルクェイド、質問ですが何故彼がここにいるんですか? 大抵の場合、彼は『この世界』にすらいないはずですが。それとも、彼がここに来ざる得ないような、何かとんでもない事が起きたとでも?」
「…………」
その問いに対して、アルクェイドの返事はない。いや、その耳に先輩の声が届いているのかも疑わしい。
……よくはわからないが、それ程の相手なのか。
先輩が冷静さを失い、アルクェイドがこんな風になるような。
――と、そこで老紳士がこちらへと歩き始めた。
「あ……」
先輩が声を上げたが、動かない。いや、動けないのか。
アルクェイドもまた動かない。こちらは、まだ言葉すら発していない。
そんな二人を尻目に、老紳士は慌てる風もなく、ゆったりとした足取りでこちらへと近付いてくる。
やがて、俺達の前まで来た老紳士はようやく足を止めた。
「……え、えーと」
何を言っていいのかわからない。
アルクェイドと先輩へ視線を向けるが、相変わらず二人は呆然と老紳士を見つめている。
辺りに人の姿がない訳ではない。なのに、端から見れば明らかに目立つはずの俺達に向けられる視線はなかった。
……まるで、俺達だけ『いない事にされている』ような感覚。
と、アルクェイドが口を開いた。
「ゼ、ゼルじい……」
聞いた事もないその名前。簡易化された、その呼び名。
何より、確認するような、相手の反応を伺うような、そんな呼びかけ。
――ワカラナイ。アルクェイドは、なんでそんな呼びかけをして、こんな顔をしているのか。
一方、呼びかけに、老紳士は表情を緩める。
「……ああ。久しいな、アルクェイド」
鷹揚に応じる老紳士。
その返事は懐かしげで……アルクェイドと彼が、決して無関係とかではない事を嫌が応にも理解させた。
なんだか、出る幕がない。口を挟めない。
「――いやしかし、面白いところに出くわしたものだ。まさか、お前が『教会』の『弓』と連れ立っているのを見られるとはな」
そうこうしている内にも、向こうの話は進んでいる。
老紳士がチラリと向けた視線に、先輩は狼狽えたようだったが、正直言ってそれについてはあまり気にならなかった。
俺はただ、この人が一体何者なのかを知りたかった。
一体、この人はアルクェイドのなんなのか――。
――それが、俺と『魔道元帥』、キシュア=ゼルレッチ=シュバインオーグとの出会いだった。
続く
『後書き』その一(改訂後)
みなさん、はじめまして。てぃーげるというものです。
見ていただければわかる通り、今作『月翁来たりて』は死徒二十七祖の四位、魔導元帥ゼルレッチを中枢に据えたSSです。
そして、後書きの横には書いてある通り、今作は去年の十一月に完結し、一旦撤去した物の改訂作だったりします。
当初、ひたすら自分設定での連載だったのですが、その後、アニメによるご尊顔判明や、TYPE-MOON商業ゲーム第一弾『Fate/stay
night』での大部分の設定公開があり、今回その設定を踏まえて改訂という運びになりました。
改訂前とさして変わらない部分もあれば、最早別物の部分もありますが、初めての方も改訂前を読んでくださった方も、等しくお楽しみ頂けたなら幸いです。
では、今回はこの辺りで。
……やっぱり、一人称ってムズい(とほー)。
・どーでもいい話:
某ヤクドナルドは、関東ではヤックと呼ばれ、関西ではヤクドと呼ばれます。
続く
2003/3/30