漫画やアニメではさも脆そうに語られるが、日常というのは意外と頑丈だ。
例え天変地異が起きようが、唐突にアルクェイドの『保護者』が現れようが、日は変わりなく巡り、学校だってそうそう臨時休校になる事はない。
――そんな訳で、遠野志貴は、今日も勉学に励むべく学校へと向かおうとしていた。
幸いにも、今日は土曜日。
半日で帰ってこれるから、ゼルレッチさんにそれほど退屈な思いをさせる事もないだろう。
……自分がいれば、退屈な思いをさせないという訳でもないが。
秋葉より一足早く屋敷を出、門まで来た所で見送りに付いてきた翡翠が口を開く。
「志貴さま、今日はいつ頃お帰りでしょうか?」
「ん、今日は土曜日だから昼前には終わるよ。ゼルレッチさんも俺が帰ったら頼みたい事があるとか言ってたし、学校が終わり次第すぐに――」
「志貴さま?」
不意に言葉を止めたのに、翡翠は小首を傾げて問いかける。
「――あ。ごめん、ちょっと用事を思い出した。学校の後、寄る所があるから少し遅くなると思う。昼は自分でどうにかするから、琥珀さんに俺の分の昼食は作らなくていいって言っておいて」
「……はい、かしこまりました」
言い換えた事に、翡翠は少し眉を寄せたがすぐに頷く。
待っているゼルレッチさんには悪いが、昨日の様子から見て、秋葉が代わりに相手になってくれるだろう。
「一応、二、三時ぐらいには帰ってこれると思うから。じゃっ、行ってくるよ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
翡翠が頭を下げる。
丁寧に送り出してくれた翡翠に背を向け、俺はいつもの坂道へと歩き出した。
――唐突に予定を変えたのは、ふとした考えが脳裏に浮かんだためだ。
それは、昨日からずっと引っかかっている事。
しかし、アルクェイドの元には行き辛いし、秋葉達の目がある中で直接聞くのも躊躇われる。
そんな中で浮かんだ名案に、うんうんと頷きながら独りごちる。
「……ああいう反応をするって事は、それなりに知ってるって事だよな。多分」
そう。丁度いい相手がいるじゃないか。
『月翁来たりて』 第三話
「――ただいま。そして、遠野くんいらっしゃい」
「ええと、お邪魔します」
先に部屋に入って振り向いた先輩に、俺はそう応じて後に続いた。
徹底的に簡素なアルクェイドの部屋と違い、小物やドライフラワーなど、それなりに飾られた部屋。
『――こういう仕事な訳ですから、すぐ引き払うであろう部屋の内装に凝るのもどーかという気はするんですけどね。ついつい部屋の内装には凝っちゃうんですよ。……ここは当分引き払う予定はありませんから、気にする必要もないんですが』
とは、以前言っていた先輩の弁である。
別にアルクェイドのかなり殺風景な部屋をどうこう言うつもりはないが、こういう部屋もいいなーとは思う。
「とりあえずお昼の準備をしたいんで、そこで待っててくださいね」
「あ、はい」
先に部屋に入った先輩は、そう言って台所へと向かって行った。
……それにしても、今の先輩はいつにも増してにこにこしている。
半年前に三年生として学校を『卒業』し、今では『メシアン』でアルバイトしている先輩。
今回、こちらの都合で唐突な早上がりをさせてしまったのだが、本人的には嬉しかったのだろうか?
それを裏付けるかのように、台所から嬉しげな声が聞こえた。
「それにしても、驚きましたねー。まさか遠野くんからお誘いを受けるなんて。こういうのって、何気に初めてじゃないですか?」
「え、えーと……」
ちょっと言葉に困る。
こっちとしては魂胆(と言う程でもないが)があってのお誘いだった訳で、こうも喜ばれると罪悪感を感じてしまう。
「あ、それはそれとして――」
台所からひょっこりと先輩が顔が出す。
「遠野くん、お昼はどうしますか?」
「いえ、気にしなくていいですよ。この通り、売店でウィンナーパンを買ってきましたから」
先輩の問いにひょい、と鞄からパンを取り出してみせる。
ちなみに、これ一個だけだ。
お昼には少々少ないが、手元がひたすらに心ともないのだから仕方がない。
しかし、先輩はこれが気に入らなかったようで、微かに眉を寄せた。
「駄目ですよ。若い男の子がお昼をパン一つだけで乗りきろうだなんて。そんな事だから、遠野くんは万年貧血になっちゃうんです。幸い、昨日の残りのカレーにゆとりがありますから、一緒に食べてください」
「うい。そう言う事なら喜んでご馳走になります」
先輩のありがたい申し出に、あっさりと前言を翻す。
……しかし、この先輩がゆとりがあるって言うぐらいだから、昨日のカレーって随分たくさん作ったんだろうなぁ。
例えば、多人数相手のパーティがあるとしか思えないぐらいの量だったとか。
「それじゃあ、待っててくださいね。今持っていきますから」
ともあれ、俺の返答に先輩はにっこりと微笑むと、台所へと戻って行った。
それを見送った後、少し思案する。
さてさて、どうやって切り出したものか。
先輩には悪いが、こっちとしても一番の目的を忘れる訳にはいかない。
そうこうしている内に、台所から先輩が戻ってきた。
両手のお盆にはこれでもかと言わんばかりの山盛りのカレー……食べきれるかな?
と、心持ち盛りが少ない方をこちらの前へ置いた先輩が口を開いた。
「それで、遠野くん?」
「なんですか?」
さっきとは一転、伺うような問いかけに小首を傾げる。
「ええと、昨日の事に関わってくるのですが……ゼルレッチ師は今どちらに? やっぱり、アルクェイドの元に居るんですか?」
「ゼルレッチさんですか? いや、本人はそのつもりみたいだったんですけど、なんかアルクェイドの奴がゴネちゃって。今は、うちの屋敷に泊まってますよ」
「――――」
瞬間、先輩は持っていた自分の分のお盆を取り落とした。
「ああああああっ!?」
「うわわっ!?」
先輩の手が既にテーブルの上にあったため、全滅の憂き目は免れたが、特盛りの悲しさでそれなりの量がテーブルに散らばる。
結果、俺と先輩は本題に入る前にしばらくテーブルの掃除をする羽目になった。
「――うう、勿体ない。今回は自画自賛の出来なのに、こんなに沢山……」
「あははは……それより、なんでそんなに驚いたんですか? ゼルレッチさんがうちに泊まったぐらいで」
こぼれた水を雑巾で拭き取り、散らばったカレーライスとサラダをティッシュに包んでゴミ袋に放り込みつつ、がっくりと項垂れた先輩に問いかける。
すると、先輩はカレーの恨みかひどく恨めしげな眼差しでこちらを見つめ、それから小さくため息をついた。
「驚きもしますよ――と言いたいところですが、その様子だと、アルクェイドからも詳しい話はほとんど聞いていないようですね。考えてみれば、話を聞いていれば遠野くんがここに来る事もなかったろうし、そんなに落ち着いた風でいられる訳がありませんけど」
「えっ? それって、どういう意味ですか?」
「そのままの意味です。もし詳しい話を聞いていたなら、遠野くんは私の元を訪ねてなんていられないと思います。いつ、秋葉さんがゼルレッチ師の機嫌を損ねるか心配で」
「…………」
言外に漂わせるその雰囲気に眉をひそめる。
……どういう意味だろうか?
確かに、昨日は秋葉のあらかさまな態度に、ゼルレッチさんが怒り出さないか冷や冷やしたが、先輩の口ぶりは、まるで秋葉の身を案じなければならないと言っているように聞こえる。
それは、遠野志貴が先輩に聞こうとしていた事柄に直結しているように感じられた。
「あの、先輩……」
「なんですか?」
小首を傾げた先輩に、俺は真っ直ぐにその眼差しに応じながらここに来た理由を切り出した。
「ゼルレッチさんって、何者なんですか?」
「……やっぱり、それが目的でしたか。遠野くんのお誘い、とっても嬉しかったんですけどねー」
しばしの間を置いて、少し残念そうな顔で先輩。
その表情に罪悪感を覚えないではないが、それでも話を聞くために言葉を続ける。
「その事については謝りますし、埋め合わせもします。でも、昨日の先輩の反応は、はっきり言って異常でした。アルクェイドも変でしたけど、死徒であるあの人は先輩にとっては敵と言っていい存在です。なのに、先輩の彼への反応は……あの人は、それ程の人なんですか?」
彼について、第一に浮かぶ疑問。
保護者とか後見人とかは聞いたが、結局の所俺はゼルレッチさんの事をロクに知らないのだ。
彼は、他一体何者なのか――先輩は、こちらを見つめたまま少し迷うような表情を浮かべていたが、やがて諦めたようにため息を漏らした。
「……遠野くん。最初に言っておきますけど、これは話半分に聞いてくださいね? 今から話す事は、決して間違っている訳ではありませんが、やはり『教会』側からの視点である事は否めませんから」
「は、はい」
「簡潔に言ってしまうと、彼――キシュア=ゼルレッチ=シュバインオーグ師は俗に言う『大物中の大物』なんです。ネロ=カオスやロアと同じ死徒二十七祖の一人として。どの勢力に属さず、領土も配下も持たぬ一匹狼でありながら、『埋葬機関』がその存在を黙殺している数少ない死徒として。更に言うなら、『魔術師協会』がその存在に頭を垂れる偉大なる『魔法使い』として」
「えっ?」
いきなりの爆弾発言。
『埋葬機関』がその存在を黙殺し、『魔術師協会』がその存在に頭を垂れる――。
恐らく大物なんだろうと思っていたが、どうやらそれどころではないらしい。
「『魔道元帥』、『万華鏡(カレイドスコープ)』、『宝石翁』……死徒であると同時に、魔術、錬金術を始めとしたありとあらゆる魔道の技を極め、世界の神秘たる『魔法』にすら至った人類史上最高の知的技能者。時に『大魔法使い』とさえ呼ばれる彼の名は、こちら側では多大なる尊敬と畏怖を以て知られています」
「尊敬と畏怖、ですか?」
「まぁ、知的技能者云々以前に人類史上屈指の怪物と言える方ですからね。なにしろ千四百年前、人の身にして、当時吸血鬼の王として君臨していた伝説の『朱い月』をも滅ぼしてのけた程ですし」
「『朱い月』っ!?」
その前にも気になる物言いはあったが、俺はその単語に思わず声をあげていた。
夏休みの折にアルクェイドの夢の中で出会った、アルクェイドと同じ姿をしたモノ。
彼女(彼?)は、あの時自身の事をそう名乗った。
あれを、滅ぼした? それは、つまり――ひどく簡単な結論なはずなのに、そこへ辿り着くのがひどくもどかしい。
ふと我に返ると、先輩が不思議そうにこちらを見つめていた。
「……遠野くん。『朱い月』の事を知っているんですか?」
「い、いや、実は少し前にアルクェイドと一緒に寝た時に――」
「……は?」
思わず出た返答に、間の抜けた呟き。
しばしの間を置いて、唖然としたその眼差しは剣呑な色合いに帯びる。
――やばい。完全に誤解してる。
さっきの思考が頭の中から吹き飛び、俺は慌てて話を引き戻した。
「せ、先輩、それより話の続きっ!」
「……今の件は、この後にでもしっかりと聞かせてもらいますからね?」
半目の一言。どうやら、聞かなかった事にはしてくれないらしい。
しかし、それで話をうやむやにするつもりもないらしく、先輩はため息を一つ付いてから再び口を開いた。
「『朱い月』――月が生み出したと言われる始まりの真祖にして、吸血鬼の王。その力は幻想種や神霊すら凌ぎ、この世の全てを意のままにしたと伝えられています。彼の者が未だ存在したなら、人という種は既に滅びていたであろうとも。そんな存在だった『朱い月』を滅ぼしてのけた……この事実だけで、師の力がどれ程のものか知れようというものです」
「それは、確かに」
「まぁ、その闘争の結果、師もまた『朱い月』に血を吸われて死徒になり、不本意にも二十七祖の一人に名を連ねる事になってしまったんですけどね。……ともかく、師がこの世で最強の存在は誰だという問いに対し、確実に名前が挙げられる一人である事は確かです」
……なんとゆーか、にわかには信じ難いその内容。
とりあえず、とんでもない相手なのだというのはわかったが、どうもその強烈な内容があの概ね落ち着いた老紳士風のゼルレッチさんと結びついてくれない。
この辺は、今までまったく関わりがなかったのだから仕方ないのかも知れないけど。
「ええと……とりあえず、ゼルレッチさんはとんでもなく凄い人で、死徒なのに『埋葬機関』から存在を黙殺されてるって事でいいんですよね?」
確認、というか自分を納得するために挙げられた情報を纏めてみる。
しかし、俺の問いかけに、先輩は首を横に振った。
「いえ、それもありますが……『埋葬機関』や『魔術師協会』が師を畏怖(おそ)れ、その存在に対して出来るだけ関わらないような姿勢を取っているのは、物騒極まる師の気質からなんです」
「気質……?」
意味ありげな言い方。
先輩は、眉をひそめた俺に一旦視線を外し、一つ頷いてから再びこちらを見た。
「これについては、この逸話なんかが適当ですね。……遠野くん、何故ゼルレッチ師は『朱い月』に挑んだと思います?」
「えっ? そりゃあ……やんごとなき事情があったりとか?」
「いいえ。残念と言うべきか、そんなものはありません。師は、ただ『朱い月』という存在自体が気に入らなくなった。それだけで、己の全存在をかけてケンカを売ったんです」
「……はい?」
思わず、問い返す。
気に入らなくなったから――それだけ?
先輩は、力無く笑って続ける。
「こんなのもありますよ? ――曰く、『魔術師協会』の長老格の弟子が余りに不遇だと横槍を入れ、話にならぬと再起不能にした挙げ句にその弟子を奪い取った。――曰く、二十七祖の一人が『食事』の一品と望んだ村娘を『すれ違った』というだけで割って入り、半殺しにして追っ払った。……ああ、『喧しい』という理由で滞在地に住んでいた幻想種を滅ぼしたという話もありますね」
「……えーと」
なんか、言葉が出てこない。それって、なんというか――。
「――つまり、そういう人なんですよ。例えいかなる存在であろうとも、仮に世界の全てを敵に回す結果になろうとも、邪魔ならば押し通る。気に入らなければ叩き潰す……師は、そういう思考しかしない。もとい、できない人なんです」
「……ぶ、不器用というか、なんというか」
「傍若無人って言うんですよ、この場合。己の意志をゴリ押す事にかけては、古今の歴史的指導者や宗教者にも匹敵、もしくは凌駕する訳ですから。……ちなみに、師が『埋葬機関』――もとい『教会』と関わった事は長い歴史の中でも数度に過ぎませんが、その折には先に挙げた例と同じく彼の個人的正義感によって多大な迷惑、もとい被害を被っています」
上の方では、師の事を『迷惑来訪者』なんて評しているんですよ? 無論、陰口ですが――先輩は最後にそう結んだ。
対して俺は、ただ絶句。
確かに、とんでもない人という他ない。
傍若無人な人は世間にも数多くいるが、彼はその中でも極めつけで、それに相応しい『力』まで持っているのだから。
正に『鬼に金棒』、『キチ○イに刃物』。
そして、遠野志貴は昨日の秋葉がどれほど危険な真似をしていたのかに気付くのだった。
――ありがとう、ゼルレッチさん。
あの時、怒らずにいてくれた彼に、今更ながら感謝しておく。
……しかし、失礼ではあるが、そんな人がよく勤まるものである。確かに、あのアルクェイドの『お守り』なんてそれなりの――。
「――あ」
そこで、はたと気付く。
「遠野君、どうかしました?」
ふと声を漏らした俺に、先輩が眉をひそめる。
……これも、聞けるかな?
即断即決、こちらを不思議そうに見ている先輩に視線を戻す。
「先輩。話が少し変わりますけど、あの人とアルクェイドの関係ってどんなものなんですか?」
「えっ?」
キョトンと俺を見つめる先輩に、慌てて続ける。
「い、いや、先輩には筋違いかも知れないけど、アルクェイドからゼルレッチさんを紹介された時、その言い方がどうもわかり辛かったもんで。『教会』側からはどう伝わってるのかなって」
「……わかり辛かったって、アルクェイドはどんな風に師を紹介したんですか?」
「保護者、もしくは後見人って言ってました。一応、ゼルレッチさんもそうは言ってたんですけど……考えてみれば、あいつって確か――」
そこで言葉を切る。
アルクェイドがここにいる訳でもないし、口に出したからどうと言う事でもない。
それでも、『あいつはこれまでずっと独りだったはずだから』――なんて、あまり口にしたい事ではなかったから。
先輩もそれはわかってくれたらしく、後は聞かないでくれた。
代わりに、俺の問いに納得したように頷く。
「……なるほど。遠野くんの言わんとしている事はわかりました」
「何か、知っているんですか?」
「勿論、本人達の主観があるようですから、わたしにも詳しい事はよくわかりません。ただ、『教会』の資料によれば、アルクェイドにとってのゼルレッチ師は、保護者、もしくは守護者と言うべき存在とは記録されているんです」
「守護者ですか?」
後見人、と言っていたアルクェイドやゼルレッチさんの言とは同じようで少し違う。
「ええ。『教会』の資料によれば、アルクェイドが対『魔王』用に創造された折、真祖達は何故か自分達の王だった『朱い月』が残した死徒、ゼルレッチ師に彼女の守護を依頼したそうなんです」
「あれ? 先輩、でもその『朱い月』を滅ぼしたのは……」
「遠野君。自分より遙かに強いとわかっているのに、それでも敵討ちを考えるような者は少数派ですよ? ……それに、どうも他の真祖達は自らの王を滅ぼした彼に対し、何故か友好的な態度を取っていたようで」
「? ? ?」
まぁ、この辺は資料にも穴があるので割愛しますが――そう前置いてから、先輩は続ける。
「とにかく、アルクェイドに万が一の事があってしならぬよう守護し、もしもの時――その力が何かの拍子にこちらへと向けられた時に彼女を止める役を担うためだかに、ゼルレッチ師へ依頼したようなんです。それで、師の気質から見て断ってもおかしくなかったというのに、彼は何故かこれを受けたと」
「なるほど、大体わかりました。保護者、守護者、後見人……うん、そういう意味だったのか」
「……でも、妙なんですよねぇ?」
「えっ?」
ふと、先輩の口から漏れた呟き。
疑問は解けたと思った矢先のその呟きに、まじまじと先輩を見つめる。
「先輩、妙って?」
「いや……実は、少なくとも『教会』の資料を見る限り、師がその依頼の元、アルクェイドに助力した事はただの一度としてないんです」
「はい?」
思わず、間の抜けた声で問い返してしまった。
「基本的に俗世に関わる事を極端に嫌う『魔法使い』の中で、師は殊更にこちら側に関わってくる異色の存在なのですが、同時に『渡り歩く者』と呼ばれる程の放浪癖の持ち主で……公式な記録では、数百年前を最後に姿すら確認されていないとされている程なんです」
「そ、そーなんですか?」
「ええ。勿論、それは公式に確認されていないだけですけど……どっちにせよ、そんな方が保護者だか守護者だかと名乗れると思います? 基本的にこの『世界』にいる事すら疑わしい――なんて言われているような方が」
「それは……」
「だから、妙なんです。師はそんな方ですし、実際に少なくとも資料によれば、師がアルクェイドに助力した事はないんです。彼女がわざわざ『教会』と共同戦線を張った初代のロアの時ですら」
しばし、絶句。
……でも、考えてみるとあの時だってそうだった。
アルクェイドとの、あまり思い出したくない出会い。
あの時、アルクェイドは俺の手によって一度『殺され』、そのせいで以後も散々な目に遭っている。
最後には、本当に死にかけすらしたのだ。
なのに、保護者にして後見人というゼルレッチさんは姿一つ現さなかった。
そして、アルクェイドもまた、それを期待したりする素振りは一度たりとも見せなかった。
それが意味する事は一つしかない。
「……つまり、守護者とか保護者、後見人の肩書きはあって無きに等しいものって事ですか」
「そうとしか説明がつかないのは事実です。しかし、その割には昨日の『ゼルじい』呼ばわりでしょう? あの様子だと、幾らかの関わりはあったと思えますし……」
そこまで言って、先輩は顎に手をやって唸り始める。
でも、それは俺も同じ気持ちだった。
なんだか、疑問が解消されたそばから新たな疑問が沸いてくる。
……何より、一番大きな疑問が解決していない。
(――ゼルレッチさんは、なんで今になってここへやって来たんだろう?)
あの人はアルクェイドの手紙がきっかけだと言っていたが、それだけとは思えない。
先輩に聞いた彼の不可思議な立場が、その思いを強くする。
ともあれ、それからしばらくの間、俺は昼食そっちのけで先輩と一緒になって唸るのだった。
――奇妙なお客様。
失礼とは思うが、あの方を一言で言い表すとなるとそう言うしかない。
その外見、雰囲気、素性全てが普通とは言い難いのだから。
そんな奇妙なお客様を迎えに行くために、わたしは廊下を歩いていた。
あの方――ゼルレッチさまを昼食にお呼びするためだ。
『――翡翠ちゃん。今、昼食の支度が終わるから、そろそろゼルレッチさんを呼んできて?』
姉さんから頼まれてこうして出向いているが、実の所少し怖い。
ゼルレッチさまがこの屋敷に逗留して一夜。
その間に姉さんや志貴さま、秋葉さまにはそれなりの交流があったようみたいだが、わたしだけは遠目に見るだけであの方とは会話らしい会話すらしていないのである。
――悪い人ではない、と思う。
未だに治らない潔癖性も手伝って避けてはいたが、不快な印象がある訳ではない。
わたしを見下ろすような大柄な体格だが、その身体から漂わせる雰囲気は静かで落ち着いたものであったし、姉さんや秋葉さまと話すその声音も、穏やかで優しそうだった。
何より、志貴さまが連れてきた方なのだから、悪い人であるはずがない。
……でも、ゼルレッチさまに対し、気になる点があるのも事実だった。
それは、何故縁者だというあの金髪の女性――アルクェイドさまの元に泊まらず、ここへ逗留しようとしたのか。
話を聞く限りでは、あの方が来たのも、彼女の顔を見る事だったようである。
なのに、何故露骨に嫌がっていた秋葉さまを説得してまで……。
「……まさか」
ふと、嫌な想像が頭に浮かぶ。
もしかしたら、ゼルレッチさまは志貴さまを見に来たのではないか。
――志貴さまと、アルクェイドさまが恋人同士であるという事は、わたしだってわかっている。
ゼルレッチさまがアルクェイドさまの『家族』だというのなら、この事はとても気になるのではないだろうか?
わたしも、姉さんが恋人というものを得たなら、気になってしまうだろうし。
そして、それが意味する事は――。
(――ううん!)
わたしは、続いて脳裏に浮かんだ単語をすぐさま頭を振って打ち消した。
志貴さまのこと。アルクェイドさまのこと。……最早叶わぬ願いだけれど、今からそんな事を考えたくはない。
「……あ」
考え事をしている内に、随分歩いていたらしい。
いつの間にやら、わたしは中庭の入り口へと辿り着いていた。
「ゼルレッチさまは、どこにいるのでしょう?」
姉さんの話では中庭を散策しているそうだが、この広い中庭、木々の生い茂る離れまで行かれると自力では見つけようがない。
うまい具合に見つけられるとよいのだけれど――。
そんな事を考えつつ入り口をくぐったその時、姉さんの菜園の方で声が聞こえた。
「――まぁ、よかったと言うべきかな。正直な話、ヨハンの忘れ形見である君の行く末は気になっていた。相手が『彼』というのが少し気にかかるが、これも縁というものだろう」
誰かに向けた、苦笑めいた呟き。ゼルレッチさまの声だ。
声の聞こえた菜園へと歩いていくと、菜園の手前辺りで小さな黒猫を胸元に抱えたあの方がいた。
今の話相手は、あの子猫であるらしい。
とりあえず、わたしはゼルレッチさまに声をかける。
「……あの、ゼルレッチさま?」
「む」
わたしの声に、ゼルレッチさまは子猫を抱えたまま振り返った。
姉さんと概ね瓜二つの容姿がそうさせたか、わたしの姿を認めると一旦眉をひそめる。
「君は……翡翠さん、と言ったね?」
「はい。あの、姉さんが昼食の支度が出来たので、そろそろ居間の方にと――あら?」
そこで、わたしは気付く。
「どうかしたかね?」
「その猫……」
「ふむ?」
「よく、抱けましたね。その猫、この中庭を寝床にしているようなのですが、これまで志貴さまにしか懐かなかったのに」
首に巻かれたその体毛と同じ黒のリボン……間違いない。
ゼルレッチさまに抱かれていた猫は、夏休みの中頃になって唐突に中庭に住み着いた黒猫だった。
考えてみれば、この中庭で黒猫だというのだから『彼女』なのも当然だった。
気付かなかったわたしが愚鈍だっただけである。
ともあれ、屋敷では志貴さまにしか懐かなかったはず子猫を抱えている事に驚くわたしに、ゼルレッチさまは苦笑めいた笑みを浮かべる。
「いや、実はこの子とは見知らぬ仲という訳ではないのだよ。この子は元は私の教え子が飼っていた猫でね、それを故あってアルクェイドが譲り受けたのだ。……しかし、こうしてここに住み着いているとなると、どうやらあの理不尽なご主人を捨てて、こちらに鞍替えしたらしいな」
「そうだったんですか?」
そう言えば、何故かアルクェイドさまに対してはそこそこ懐いていたような気がする。
内心不思議には思っていたが、元々は彼女の猫だったのか。
志貴さまは、時々彼女の自宅にお邪魔するらしいから、その時に懐かれたのだろう。
しかし、それにしても……。
(……いいな)
ゼルレッチさまに抱かれている黒猫を見て、そんな事を思う。
何しろこの黒猫、わたし達には警戒心が強く、志貴さまの指示の元ミルクなど与えても、 触れようとするだけですぐに逃げてしまうのだ。
わたしは特別猫が好きという訳でもないのだが、なんとなしに撫でてみたいとは思っていただけに、ああやってこともなげにあの黒猫に触れているのを見てしまうと、羨ましいという思いは捨てきれない。
――いつの間にやら、それが顔に出てしまっていたらしい。
ふと、ゼルレッチさまが口を開いた。
「触ってみないかね?」
「えっ?」
「なに、私が抱えている以上は逃げられる事もない。この子も、別に撫でられるぐらいは構わないだろう」
不意の申し出に呆気にとられるわたしに構わず、ゼルレッチさまはそう言って黒猫を心持ち前に出す。
「…………」
少し、迷う。逃げられたら、爪で引っかかれたら、そう思うと自ずと手が動かなくなる。
しかし、ずっと抱いていた欲求……。
しばらくの間を置いて、わたしは黒猫の頭に手を触れさせていた。
「あ……」
暖かな、そして柔らかな猫の毛の感触。
最初は毛に触れるだけだったのに、知らず知らずのうちにわたしは肌まで触れていた。
撫でる度に感じる、心地よい感触。
なんとなしに、嬉しい――ついつい頬も緩んでしまう。
――と、その時、ゼルレッチさまが不意に問いかけてきた。
「なぁ、翡翠さん」
「……あ、なんでしょうか?」
「君は、アルクェイドの事をどう思う?」
「――――」
わたしは、緩んでいた表情が急に強張るのを感じた。
――さっき、脳裏に浮かんだ考え。それを肯定するような問い。
それでも、どうにかいつもの無表情を作ってそれに答えようとする。
「それは、使用人であるわたしが――」
「――悪いが、使用人としての言は聞いていない。私が聞きたいのは、翡翠という女性個人の言だ」
今までとは違う、静かだけど強く、鋭さに帯びた口調。
わたしは言葉を失う。表情の方も、最早維持できているのかもわからない。
――この方は、何のつもりでこんな事を聞くのか。わたしに、何を言わせたいのか……。
すると、ゼルレッチさまがふと表情を崩した。
「……いや、すまない。そんなに難しく考えなくていい。あの娘の事が好きか嫌いか、それだけでいいのだよ」
さっきより、随分と柔らかな口調。それで、少し気が楽になる。
……しかし、どうなのだろう?
よくわからない、というのが正直なところだ。
確かに志貴さまが好きだというアルクェイドさまに対し、嫌な気持ちを抱く事はあるけれど――同時に、彼女のあの明るさはわたしには眩しく映り、羨ましくも思う。
そして、誰にでも向けられるあの笑顔……。
仮に、好きか嫌いかと聞かれれば――。
「――好き、だと思います」
視線を落とし、正直に告げる。
しばしの間を置いて俯いていた顔を上げると、ゼルレッチさまは真顔でわたしを見つめていた。
「あの、ゼルレッチさま……?」
何か、変な事を言ってしまったのだろうか?
わたしが心配し始めたその時、ゼルレッチさまは微笑する。
「ありがとう」
「…………」
お礼の言葉。
まさか、こんな言葉が返ってくるとは思っていなかっただけに言葉を失う。
そんな私を見てゼルレッチさまは苦笑し、言葉を続けた。
「安心したよ。アレは、ああいう娘だからな。考えなしの行動で、君達の気分を害していないか心配だったんだ」
「そ、そうだったんですか……」
「ああ。秋葉嬢はともかくとして、君や琥珀さんには嫌われていないようでよかったよ。色々あったが、アレは今とても幸福らしい」
視線を外し、ゼルレッチさまはしみじみと呟く。
その呟きは確かにアルクェイドさまへの想いが感じられ、この方が彼女の事を本当に心配していた事を伺わせた。
――しかし、不意にその眼差しが鋭さに帯びる。
「……まぁ、アレにとっては、この現状は非常に気にいらんのだろうが」
「えっ?」
さっきとは明らかに別人の声音と、吐き捨てるようなその呟き。
そして、怒りと嫌悪に帯びたその眼差し……。
わたしは、訳もわからず息を飲む。
すると、わたしの視線に気付いたゼルレッチさまはすぐに取り繕うように微笑んだ。
「――いや、すまない、翡翠さんには関係のない話だったな。そろそろ居間に戻るとしようか。軒先を貸してもらっている身分で、琥珀さんを待たせてはいけない」
「は、はぁ……」
わたしが応じると、ゼルレッチさまはそのまま背を向けて中庭の入り口へ向かう。
その姿に、今のあの方の面影は見当たらない。
見間違い? でも、今確かに――混乱したわたしは、ただ呆然とその背中を見送る事しかできなかった。
坂を上がりきって屋敷に辿り着くと、門の前で翡翠が待っていた。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
「ただいま、翡翠。……って、なんでここにいるの?」
「三時までには帰ると志貴さまがおっしゃられていたので。志貴さまは基本的に言った時間から少々遅れる傾向があるので、五分ほど前から待たせていただいてました」
「あ、そうなんだ。別に、出迎えなんてしなくてもよかったのに」
「いえ。実は、たまたま時間が空いていたんです。それで、それなら他の仕事が入るまで志貴さまを待っていようかと」
翡翠は淡い微笑みを浮かべて言う。
……なんというか、それはそれで照れ臭い。
「あ、ありがと。――それはそうと、秋葉はもう帰ってるよね?」
「はい。秋葉さまは……姉さんと一緒になってゼルレッチさまお話ししているようです。多分、昨日と同じくアルクェイドさまの事かと」
「? ん、わかった」
一瞬、翡翠が浮かべた迷うような表情。
気にはかかったが、とりあえず流しておく。
「それじゃあ、屋敷に入ろうか」
「はい」
そして、屋敷に入ろうと翡翠と連れ立って門をくぐ――らなかった。
横の翡翠が、不意に足を止めたのだ。
「翡翠?」
とりあえず小首を傾げてみる。
翡翠は心持ち俯き、迷うような表情を浮かべている。
それは、さっき一瞬だけ浮かべたものと同じ表情。
やがて、翡翠は顔を上げて口を開く。
「志貴さま、あの……」
「……なんだい、翡翠?」
何か言いたい事があるらしい。
しかし、一度は決心した心もすぐに揺らいでしまったらしく、翡翠は再び俯いた。
「……ええと、やっぱりいいです」
「…………」
いいと言われても、そこで切られるとこっちとしては凄く気になるんだけどなぁ。
まあ、無理に聞き出すのも気が引ける。
迷うという事はそこまで深刻な話でもないようだし、翡翠の決心を待った方がいいだろう。
「それなら、いいけど……決心がついたら言ってよ。なんだかわからないけどさ」
「はい……」
何か言いかけてやめた手前か、翡翠は顔を伏せたまま頷く。
そして俺は、翡翠と連れ立って門をくぐった。
居間に入ると、秋葉とゼルレッチさんが一緒に紅茶を飲んでいた。
こちらの気配を感じたか、まず秋葉が視線を向けてくる。
「お帰りなさいませ、兄さん。今日は昼には下校だというのに随分遅いご帰宅ですね? 客人を一人待たせておくなんて、余り感心できる態度とは思えませんが」
早速、きつい皮肉を浴びせてくる。
……多分、どこに寄ったかバレてるんだろうなー。この様子だと。
しかし、今回の件についてはちゃんとした目的があったのだ。
ここは兄の尊厳のためにも、反撃しておかねば。
「客人を一人待たせてって、見た所お前が捕まえてるみたいだが? 大方、時間がある事をいいことに、昨日の夜みたいにアルクェイドについて根掘り葉掘り聞いてたんだろ?」
「む……」
その通りだったらしく、珍しく秋葉が言葉に詰まる。
すると、今度はこっちと秋葉を面白そうに眺めていたゼルレッチさんが口を開いた。
「はっはっは、別に構いませんよ。アレについての情報は私がここに逗留するための条件。根掘り葉掘り聞かれるのも致し方ありますまい」
「んー、ゼルレッチさんがそう言うんなら、いいんですけどね」
そこで改めてゼルレッチさんの方を見やる。
……似合う。
『お嬢様』な秋葉だって似合いはするのだが、やはり洋館となれば外人のものなのだろう。
ソファーにゆったりと腰掛け、紅茶を傾けるその老紳士の姿は、秋葉には悪いが、これ以上ない程にハマっていた。
思わず、まじまじと見つめてしまう。
「……どうかしたのかね?」
「あ、いや……」
あはは、と笑って誤魔化しておく。
それにしても、こうして見ている限りは、この人がシエル先輩の言うような人物とはとても思えない。
確かにその目はあの話を伺わせるような鷹のように鋭いものだが、実際に浮かべている表情は常に穏やかなものなのだから。
と、そこでふと秋葉が口を開いた。
「……ゼルレッチさん。兄さんが帰ってきた事ですし、朝方におっしゃっていた頼み事を話されては?」
「ああ、それはそうですな」
「……あ。朝食の時にも、そんな事を言ってましたね?」
それで、こっちも思い出す。
朝食の時、ゼルレッチさんは帰ってきたら頼みたい事があると言っていたっけ。
「それで、ゼルレッチさん。俺に頼みたい事って何なんですか? 無茶なものでない限りは、努力しますけど」
「いやいや、そんな無茶なものではないよ。ただ、君の時間を使わせてしまうのは確かだけどね」
そう言ってゼルレッチさんは笑う。
時間を使う? 捜し物か何かだろうか。
こっちがそんな事を考えている内に、彼は続ける。
「志貴君。唐突な頼みでなんだが、明日この街を案内してくれないかな?」
「えっ?」
そのゼルレッチさんの頼み事に、俺は思わず問い返した。
続く
『後書き』の三(改訂後)
ども、てぃーげるです。
『月翁来たりて』の第三話をお送りします。
個人的な妄想も多分に含むゼルレッチの下りはいかがだったでしょうか?
『Fate/stay night』でかなりの設定公開はありましたが、個人的にはやはり『とんでもねぇ程傍若無人かつ正義の人』という歌月十夜の情報が基盤なのでこんな感じに。(苦笑)
ちなみに、翡翠のパートにてゼルレッチがレン相手に話している際にあった『ヨハン』という名前は、レンの元マスターの事です(とーぜんでっちあげ)。
次は物語における幕間で多分にオリジナルが入りますが、楽しんで頂けると幸いです。
では、今回はこの辺りで。