夢は終わった。

永遠の一日の繰り返し

それは、とても穏やかで幸せで

何も、知らなかった少女の望んだ日々だった。

だけど、それ故に悲しくて…とても儚い夢だった。

夏の夢の終わりに思った。

スミレ色の髪を振り乱すほどに走って、自分を護り

自らの夢を織っていった少女

彼女に出会えてよかったと

彼女を救えてよかったと







夏の夢の中で思い出した。

幼なじみとの思い出を

彼女への愛しさを…

幼き日の想いを

夏の夢の終わりに思った。

夢から覚めても、自分を護ってくれた黒猫が望む。

騒がしくも穏やかな日々が続いてくれればいいと

そして自分のためだけにただ一つ『想った』

自分が置き去りにしてしまったせいで…笑い方を忘れて…

それでも、自分のために尽くしてくれる幼馴染の事を

心配させてしまったであろう彼女を

安心させてあげたいと

自分でも気づかぬほど自然に想っていた。






歪ナ翡石…ソノ幸セ







闇が晴れていく。

安らかで心地良い闇

この闇に光が差して

夢から現実に戻るときはいつも優しい声が光を運んできてくれる…。







「志貴様…そろそろお目覚めの時間です…。お起きになられて下さい、志貴様…」

翡翠の声…

いつも通りの静かで優しい声に意識が覚醒していく。

この声と共に一日が迎えられる事…翡翠が自分のために身を砕いてくれる事を

この上なく嬉しいと思う反面

やはり、翡翠に申し訳ないとまだ、覚醒していない頭でぼんやりと思う。

…尤も、このことを翡翠に言うと、なぜか翡翠を不機嫌にしてしまう事が、分かっているので

この気持ちは、胸に閉まっておく。







まだ、覚醒していない頭でも、目を開ければ自分の周りの映像は入ってくる。

長年の習慣で、まず枕元の眼鏡を手に取りかけてから

ゆっくりと横を向く。

「おはようございます。志貴様」

そこには、目を閉じ、恭しく頭を下げる翡翠の姿

いつも通りの朝の風景

でも、いつものことだから

それがとても嬉しくて

やめて欲しくなんかないのに、申し訳ないぐらいにありがたくて

幸せだと感じた。

「おはよう翡翠、いつもありがとう」

だからだろう、こんなお礼の言葉が意識なんてしてないのに、自然に出てきたのは

「あ……」

不意に

翡翠は手を胸に当てる格好で固まってしまった。

「翡翠…どうかしたのか?」

不思議に思って、翡翠の顔を見る。

…よく見ると、顔が赤いように見える。

「具合でも悪いのか?翡翠」

「え……、そ、そのようなことは…」

翡翠はそう言うが、信用できない。

ただでさえ無理をしてしまう性格なのだし

そんな赤い顔で言われても、説得力がない。

「翡翠、少しごめん」

そう言って、翡翠の額に手を当てる。

「し、志貴様……!!」

うん、熱はないようだ。

少し安心して翡翠の顔を見ると、なぜかさっき以上に顔は真っ赤で目が潤んでいる。

「翡翠…?あ…!」

翡翠の様子から今の体制に気づく。

翡翠の額に置かれた自分の手…

それに、気づけば真近に翡翠の顔があった。

高潮した翡翠の頬…

一瞬、泣いているのかと錯覚してしまうほど潤んだ瞳

そんな表情をされて…

すぐ離れなければいけないと分かっているのに

不覚にも、自分の支配できる身体機能は

一時、全て停止してしまった――――







「ご、ごめん」

それでも『一時』の後、何とかそれだけ口にすると

翡翠から手を離す。

「あ……」

すると、翡翠は何か名残惜しそうな声を出した。

罪悪感を刺激されるが、しかたない。

…こんな翡翠をずっと見ていたら、俺の理性のほうがとびかねない。

正直、今だってギリギリのところなのだ。

沈黙が部屋を支配する。

決して不快ではないが、どうしていいか分からないという気まずい沈黙

顔を上げれば、まだ赤面している翡翠がいて

おそらく同じように赤面して…翡翠を抱きしめたい衝動を必死に抑えている自分がいた。

それすらも身勝手な言い分かもしれないと思っていたが

翡翠に、一方的な感情を押し付ける気がして…嫌だった。

だけど…それは、砂上の楼閣のごとき脆い意思

彼女の愛しさに少しでも触れれば…崩れてしまうと分かっていた。

だから

「着替え…そこに置いておいて、すぐ下に行くから」

俺は無理やりいつも通りの日常に時を戻した。

「あ…はい」

翡翠は、目が覚めたように体を震わせると、努めて平静にお辞儀をした。

顔は、赤く染まったままで無理が見え見えだったが

それは、こちらも同じなので気にしている余裕など無かった。

「それでは、失礼致します」

幾分かいつもより落ち着かない様子で、翡翠は部屋を出て行く。

その翡翠を見送って

ベットの横から上半身だけを横たえる。

「翡翠…」

視線の先には見慣れた天井

その眼前に手を翳す。

翡翠に触れていた手を…

自分でも、どう形容していいか分からない感情が胸に渦巻いている。

…何時からこうなったんだろうと

夢から帰ってきた後から何度となく繰り返した問いを

また思う。







それは、夢から帰って病院のベットで彼女を見たときか……

それは、夢の中で彼女の愛しさにふれた時か……

それは、夢に落ちる前、甲斐甲斐しく自分に尽くしてくれる彼女と過ごした時か……

それは、8年ぶりに帰ってきて、彼女と再会した時か……

いや、それは思うにもっと前

誰も信じる事ができず、閉じこもっていた自分を気にかけてくれた少女を

少女の言うように『信じて』しまった時

俺は、もう彼女にこのような感情を持っていたんだろうと

…何度も繰り返し、もう何度もたどり着いた答えを…また繰り返す。







そして…

こんなに昔から持っていた感情に

自分で気づくのに8年以上もかかって

加えて、あんな『夢』何ていうきっかけまで必要としたなんて…

俺は…彼女…翡翠がいつか言ったように

間違いなく『愚鈍』だったなと、苦笑した。







そして、一階に下りて行くと秋葉が紅茶を飲んでいた。

その、いつも通りの光景を見て

ああ、今日は休日だったな――――と

いまさらながら、理解した。

そして、朝の挨拶を交わし秋葉に憎まれ口を言われ、琥珀さんに呼ばれて朝食をとる。

これもいつも通り

そして、その後9時まで朝のお茶会の時間が続いていく。







でも、こんないつも通りの休日の中で…つい、翡翠の姿を目で追ってしまうのは

まあ、仕方のないことではないかと

自分では思っていたりする。







いつも通りに、9時の時報が鳴るまでお茶を飲みながら4人で雑談をした後

俺は中庭に足を運んでいた。

こんな天気のいい日に屋敷の中に閉じこもっているのももったいない気がしたし――といっても屋敷の敷地内だが――

ここにくれば、朝から姿を見ていない、最近知り合った新しい家族にも会えると思ったからだ

だって、ここは彼女のお気に入りの場所なんだから







案の定、中庭に備え付けられた椅子の下に

黒猫が座っていた。

「レン、おはよう」

黒猫…レンは俺のその言葉に顔を上げると『にゃあ』と鳴いて返事をしてくれた。

そして、視線を俺から外す。

どうも、レンは空を見ているようだ。

なんとなく、俺もレンと同じ景色が見たくて椅子に腰を下ろして空を見上げた。

視界の端に雲があるから『雲ひとつない青空』というわけにはいかないが

それでも、吸い込まれそうに綺麗な青空

…蒼一色の空より、雲で適度にコントラストが付いた方が綺麗だと感じるのは俺だけだろうか

そんな他愛のない、意味のないことを

ふと考えてしまうほどに、それは穏やかな光景

でも、こんな日常は悪くない。

だって、それは…遠くから『見る』事しか知らなかった

何も知らず、それが『幸せ』と『感じて』いたことすら知らなかった。

哀しい黒猫が望んだ『夢』そのものだったから……







「う…んっ…」

音も無く、ただ自然に目を覚ました。

寝ぼけた頭で、辺り――中庭――を見回して

自分がいつの間にか眠っていた事に気づく

……最近、妙に眠ってばかりな気がする。

そういえば、夢でも一日中眠っていた日があった様な…

まあ、記憶が前後していまだに混乱している部分がある上に

そもそも、あそこでは『一日』という概念すらないのではあるが

そんなことを思いながら、また椅子に背をあずけて空を見る。

…まあ、眠ってしまうのも仕方ないかもしれない。

こんなに気持ちいい空を見ていたんだから…







そういえば、夢を見なかったな…とさっきの眠りを思い返してみる。

最近、夢を見っぱなしだったせいか、ふと夢を見ないことを可笑しく思ってしまう自分がいる。

そんな自分に苦笑して

何の意味も意図もなく、視線を下げる。







―――それは、夢を見ない眠りの代償だったのか。

―――それは、そこで過ごした思い出の残滓だったのか。

―――それは、そこで幼少の時を過ごした少女に自分が囚われていたからか

しかし、確かに俺はその時…幼い自分が、幼馴染の少女に連れられて

親友と共にこの庭を走り、その後に妹が付いてきている光景を幻視した―――







幻視

そう、幻視だ。

そんなものが、見えるわけが無い。

そんなことはありえない。

しかし、俺――遠野志貴には、それが見えてしまった。

確かに、幻であるはずのそれは

その瞬間、遠野志貴にとって幻ではなかった。







「―――……」

目を見開き、言葉を失う。

それは、遠野志貴が幸せだった時の幻

それは、遠野志貴が何も知らなかった時の幻

何も知らず、何も学ばず

ただ、ただ幸せだと思っていたときの幻

でも、その時から…自分は知らなかっただけだった。

俺を、遠野志貴を救って、信じることを教えて、幸せを運んでくれた少女は

その頃から、その場所に捕らわれて、他のどこにも行くことはできなかった。

少女の何よりも大切な半身は、少女を護るために、文字通り全てを投げ打っていた。

そして、何よりも残酷だと感じるのは……

そのことを、護られている少女が何も知らなかったこと―――







どうかしている。

こんなに、綺麗な空の下で

翡翠と遊んだこの中庭を見ながら

その楽しかった思い出を幻視して

こんなことを思い出して、考えてしまうなんてどうかしている。

でも、思い出してしまった。

考えてしまった。

だから、もう止まらない。







思い出すのは『夢の中で見た夢』の事

いや、普通は夢の中で夢など見ない。

……まあ、夢というのは現実半分、幻想半分の

不定で訳がわからなくて何でもありな物だから断言はできないが

俺は、少なくとも普通の夢の中で眠って夢など見たことはない。

でも、あの夢の中だけは違った。

その中の一つを思い出す。

それは、ふざけていて

訳が分からなくて

絶対にありえない夢だった。

だって、そうだ。

シエル先輩そっくりの先生がいて

久我峰が校長で

秋葉や翡翠や琥珀さんはおろか

ネロやロアがその場にいて

しかも、俺と普通に莫迦な事を話しているなんて

そんなこと、ありえないにもほどがある。

だけど、そんなありえないごちゃごちゃした夢の中で、知った事があった。

琥珀さんから聞き、翡翠や今の雇い主である秋葉すら知らない事実

それは、彼女達の待遇

琥珀さんは言った、自分達が自由になった時…つまりは雇われた者にもう十分だと言われた時

彼女達が働いたその見返りが払われる。

そして、そこから分かる事があった。

今のこの場所には、彼女達を苦しめるような者はいない。

それでも…彼女達…翡翠と琥珀はこの屋敷に『遠野』というこの場所に

捕らわれているということになるのではないかと…

きっと、翡翠も琥珀さんも今は、この屋敷で働く事は嫌いではないと思う。

自惚れでは無く、翡翠も琥珀さんも秋葉や俺のことを家族として、そして主人としても

嫌いだとは、思っていないだろうと、俺は知っている。

なのに…それを知っているのに、こんなことを考えてしまうのは…むしろ彼女達に失礼だと思う。

完璧主義者で、従順で、仕事には厳しい翡翠にこんなことを言ったら

『きっと、自分に至らない所があって暇を出されるのだ』ぐらいの誤解はしかねない。

もしかしたら、泣かれてしまうかもしれない。

……それでも、俺は罪深いことに……

琥珀さんや…翡翠と離れるなんて望んでいないくせに

彼女達を自由にしてあげたいなんて…思ってしまった。







そんなことを考えているうちに、いつのまにか昼食の時間になっていた。

最近になって、可能となった4人で囲む食卓

楽しい穏やかな時間だった。

でも、そんな時間のなかでも、さっき考えていた事が頭からはなれない。

翡翠の様子をつい、見てしまう。

そして『彼女はここにいて、幸せなんだろうか』と

おせっかい以外の何者でもないと分かっているのに

考えてしまう。

そして、気づくと翡翠を見つめて、思ってしまう。

自分で望んだことではなかった

でも、そんなものは言い訳で

8年間も翡翠のもとから離れて

その間、翡翠が何を見て、どんな気持ちでいたか知らなかったくせに

翡翠に幸せになって欲しい。

俺の手で幸せにしたいなんて

そんな不相応で、勝手なことを……。







昼食の後、翡翠の姿を捜して屋敷を歩く。

あんなことを考えた後では

翡翠と何を話していいか分からないといった思いもあるが

そんな思考よりもさらに強く翡翠の姿を見たいと思っていた。







キッチンの入り口から中の様子を見る。

思ったとおり、翡翠はキッチンでなれない手つきで包丁を操っていた。

ここにくれば、翡翠にあえるような気がしたのは

あの夢の経験から考えたのだが

その考えは、図にのったようだ。

「何してるの?翡翠」

声をかけると、肩を震わせて振り返る。

翡翠は、平静を装っているつもりだろうが

いつもの無表情の中にしっかり動揺の色が見える。

何やっているかなんて、大体の見当が付いているのにこんな顔をさせる俺って極悪人かな…なんて思わなくもないが

夢のことを話すわけにもいかないしな…

「何か御用ですか?志貴様」

「いや、用があるって訳じゃないんだけど…翡翠は何してるのかなって思ってさ」

そして、ひょい、と顔を横にずらして翡翠の後ろの光景を見る。

「あっ…」

翡翠が顔を赤くしながら、短く声をあげる。

翡翠の後ろには、翡翠が捌いた食材が置いてあった。

「し、志貴様」

赤い顔で少し睨むような表情をする翡翠

「ごめん、ごめん、でも隠す事じゃないと思うよ。翡翠」

「ですが…」

憮然とした表情をする翡翠

「ねえ、俺も混ぜてもらっていいかな?翡翠」

「お断りします」

予想はしていたが即答だった。

でも、俺もここで引く気はない。

「いいから、いいから俺だって、先の事を考えれば料理の一つぐらいできなきゃいけないんだから」

そう言いながら、使っていない包丁をとる。

ここまでしてしまうと、普段の従順さも相まって翡翠は強く出ることができない。

まだ、少し不満そうな表情をしているがそれだけだ。

しばらくの間は、翡翠に包丁の使い方を教えたり

二人で食材を切ったりしながら時間を過ごす。

そんなことをしている最中でも、翡翠の何気ない表情や横顔に意識を奪われていた。

そんな翡翠を愛しいと思う。

どうしたらいいか分からなくて、とにかく顔が見たいと思っただけだったのに

やはり、翡翠には幸せになって欲しいと思う。

でも、やっぱりどうしたらいいかは分からなかったから

俺は、気づけばこんなことを聞いていた。

「翡翠…君は今、幸せかい?」

「え……?」

翡翠はあっけに取られた表情でこちらを見る。

ああ、それはそうだろう。

何の脈絡も無くこんな事を聞かれたら誰だって驚く。

でも、翡翠はそんな問いに一瞬、驚いただけだった。

そして…

「私は、幸せです」

と答えてくれた。

「だって、秋葉様がいて…姉さんがいて……」

翡翠の言葉が途切れ、急に顔を紅く染めて俯いてしまう

どうしたのかな…と思う…すると…

―――翡翠は俺の手を握って

「何よりも…志貴様がお側にいてくれますから私は…幸せ…です……」

―――そんなことを言ってきた。

心臓が跳ね上がる。

体中の体温が調節できない。

意識がとぶ。

五感が正常に働かない。

目の前の…翡翠の顔しか見えなくなる。

潤んだ瞳に全てを奪われる。

上気し、赤く染まった頬に魅了される。

何度となく、死線を潜り抜けてきた遠野志貴は

人あらざる者と戦って、生き残ってきた遠野志貴は

その瞬間、確かに『殺された』

時が流れる…

何か言わなくちゃいけない

そう思うのに

何も言う事ができない。

無音…辺りはひたすらに無音

「志貴様…でも、志貴様はご自由になさってください」

「え……」

「…志貴様は、高校を卒業されたら…」

ああ、この言葉は

「この屋敷を出られるのですよね?」

夢の中でも聞いた。

「…うん、一度自分だけの力で生活してみたいんだ」

嘘はつけない。

そんなことをするほうがきっと翡翠を困らせてしまうから

「志貴様は、ご自分の望むようになさってください」

それは、自分の事など気にしないでくださいということか

使用人として正しく在ろうとする翡翠らしい

でも、自分は知っている。

翡翠の表情は、目を伏せて何かに耐えている表情のように見えた。

だから

「翡翠……」

俺にこれ以外の言葉なんて、思い浮かばなかった。

「もし良かったら翡翠もついて来てくれないか?」

「え…志貴様……」

呆気に取られた表情をする翡翠

「でも先ほど、自分だけの力で生活してみたいと…」

「うん、確かにそう言ったんだけど…」

自分の発言に責任が持てていない様で少しバツが悪い。

『遠野』として生きて

間接的にしろ、8年間翡翠を苦しめた自分に

こんな事を望む資格はないかもしれない。

でも

「やっぱり、俺には翡翠が必要だって思ったんだ」

この気持ちは、間違いないものだったから

心からの望みだったから

「だから、翡翠がよければついて来てほしい…」

言わないことはできなかった―――

翡翠は、その言葉に目を見開くと

顔を真っ赤に染めて俯いた後

瞳を涙に濡らして

「喜んでお供します。志貴様」

綺麗な微笑と共に、そんなことを言ってきた。

反則だ

真っ白になった頭で何とかそれだけは考える。

そんな表情をされたら、自分はどうしていいのか分からなくなってしまう。







何をせずとも時は過ぎる。

何をするでもなく、ただ翡翠に見惚れて

手の温もりを感じていた俺は

「そろそろこの場所を空けないと……」

という翡翠の呟きに正気を取り戻した。

「志貴様、そろそろ姉さんがこの場所に来てしまいます」

「あ、ああ、もうそんな時間か」

ということは、夕食時が近づいているということだろう。

いつの間に、そんなに時間が経っていたのか…

どうも、かなりの時間俺は翡翠に魅入られていたようだ…と自覚する。

さて…ということは、この手を離してこの場を去らなければいけない。

少し名残惜しかったが、ゆっくりと手を離した。

「あっ……」

その時、翡翠が小さく声をあげた。

顔を見ると、どこか名残惜しそうな表情

その表情を見て、翡翠も同じような気持ちでいてくれたのかなと自惚れる。







―――そして、そんな翡翠を置いていくのは忍びなかったから

俺は、最後に翡翠に顔を寄せて

自分の気持ちを口にした―――







「愛してる、翡翠……」







キッチンを後にして部屋に戻る。

翡翠がメイキングしてくれているベッドに寝転がった。

頬が熱かった。

純な性分ではないと、自己を分析しているが

あれは、結構恥ずかしかったと思う。

何事もないように装ってキッチンを後に出来たのは奇跡だった。

ただ、翡翠の気持ちを聞かずに一方的にこちらの気持ちだけを伝えて

去っていったのは、少し卑怯だったかなと

いまさらながら少し…後悔の念が浮かんだ。







そんなことを考えているうちに、夕食の時間になった。

いつも通りに何事もなかったかのように

その時間は過ぎていった。







そして、夕食後のお茶の時間も

いつも通りに時は過ぎていく。

それは、いつも通りの日常が今も続いている証明

それは、きっと幸せな事

でも、俺は…想いを告げても

俺が思ったように、翡翠が取ってくれなかったのかなと思った。

あるいは、一方的な俺の気持ちは迷惑だったのかなと思って…

誰にも気づかれないように…でも、確実に少しだけ…気持ちを暗くした…。







一日が終わる。

今の時刻は9時45分頃といったところか

夜行性のどっかのオレンジ頭ならこの時間から活発に活動し始めるのだろうが

遠野家は10時消灯という、いろいろな意味で外界とかけ離れた空間

そろそろ、部屋に入っていないと我が鬼妹にどやされる時間である。

部屋に入って、眠るために眼鏡を外す。

いくら、10時消灯という決まりがあるとはいえ眠るには少し早すぎる。

しかし、今日はもう眠ってもいいかと思っていた。

眼鏡を外して枕元に置く。

そこで枕元に置いてあるメモに気づいた。

折り曲げてあるそれを見る。

「……」

…まだ、今日は終わらないようだ。







中庭に出る。

夜の闇の中、その情景は昼間とは大きく違って見えた。

ただ、音の無いその暗闇は…恐怖を生み出さず

質は違えど…変わらず穏やかだった。

その暗闇を白い月光が照らす…光の中に彼女はいた。

今日、何度見惚れて正気を失ったか分からない翡翠の姿

しかし、その光景はあまりに幻想的に見えたから

思考は逆に冷えてくれた。

「こんばんは、翡翠」

声をかけて

翡翠がこちらを向く。

「――――……!」

何かをやろうと思っていたわけじゃない。

声を出そうと思っていたわけじゃない。

それでも、その時のそれは『言葉を失った』と言うしかなかった。

時にすれば、1秒経つか、経たないかの時間

その一瞬が悠久の時のように感じて

世界に自分達二人しかいないような錯覚をした。

でも、どこかで納得していた。

こんなに静かな闇の中、月光の照らすこの世界に

彼女が立っていたら…そんな錯覚の一つも抱くだろう。

彼女がこちらを向いて

一瞬の錯覚と言う名の幻想が終わる。

「翡翠が呼んでくれるなんて思ってなかったから少し驚いた」

自分も何事も無かったかのように言葉が出てきた。

「すいません、志貴様」

申し訳なさそうにそう言う翡翠はこの場にいてもいつも通りだった。

「…ですが…その私もこのままでは……その……志貴様に失礼かと思いましたし…」

顔を真っ赤にしてうつむいて、そんなことを言う翡翠

自分も緊張して然るべきこの状況で

「…嬉しいよ、翡翠…翡翠がそうやって俺に事を真剣に考えてくれたってだけでね」

…そんな言葉が自然に出てきた。

「俺の方こそごめん…なんか翡翠の気持ちも考えないで自分の気持ちだけぶつけて…翡翠に迷惑をかけたね」

「そんなことはないです!」

俺の声を打ち消すような声

見ると翡翠はさっきとは裏腹な憮然とした表情をしていた。

「…志貴様にあのように言っていただけて…翡翠は夢のようでした…だから、そのようなことはおっしゃらないでください」

翡翠はそう言って…躊躇った様に俺の服の袖を掴むと

不安なような

切なさのような

そんな感情を、宝石のような蒼い瞳に宿して

「……翡翠は……貴方を愛しています……」

そう言った…。

何も言わず、翡翠を抱きしめる。

翡翠も何も言わず抱きしめ返してくれた。

「翡翠、お願いがあるんだ」

翡翠の温もりを感じていたら…体裁とか関係なくなった。

「今夜は、ずっと一緒にいてくれないか?」

だから、自然にその願いを口にした。

「何もしなくていいから、ただ一緒にいてくれ。今夜は翡翠を離したくない」

だって、遠野志貴には翡翠が必要なんだから…







体を離し、手は肩を抱いて翡翠を見る。

遠野志貴は今、間違いなく満ち足りていた。

でも、同時に翡翠は満ち足りてないんじゃないかなんて考えてしまった。

そんなことは無いと思う。

だって、彼女は今、幸せだと言った。

俺を愛してると言ってくれた。

だから、そんな思いは俺の錯覚だって分かってる。

でも、これは忘れてはいけない事だと思う。

だって、翡翠は『遠野』という呪縛から逃れたわけじゃない。

だって、俺は今日、確かに自分の思いを一方的に翡翠にぶつける事を嫌ったのに、結局はそうしてしまった。

そして、その上『一緒にいてくれ』なんて自分の望みだけを翡翠に強要してしまっている。

翡翠はそれを望んでくれているけれど

それは、遠野に囚われているからそのようにしかできないのではないか?

それしか知らないのではないか?

そんなことを思う。

だから、答えが分かっていても…もう一度、翡翠に問いかけた。

「翡翠…今、君は幸せかい…?」

「はい、幸せです。志貴様」

そう言う、翡翠の笑顔が眩しくて…

そして、哀しくて…

自分が、この上なく満ち足りて、幸せな事と

自分が『遠野』であることが苦しくて…

でも…愛しくて…自分には翡翠がどうしても必要で

ひどいエゴなんじゃないかと思ったけど

今は自分にしかそれはできないと思ったから

たとえ、それさえも押し付けだと言われても

翡翠を幸せにしようと強く思った。






あとがき



『歌月十夜』後を舞台に志貴x翡翠SSです。

裏事情を少し明かしますと…プロット段階とはかなり変わったものができました。

タイトルも変わったし…こんなんでいいのかと思ってしまうほどです…。

書いているうちに、いろいろな問題に気づきました。

翡翠や琥珀…特に翡翠をメインにしたSSってもしかしたら凄い難しいのかもしれない…(汗)

次回があったらもう少し分かりやすい物を書きたいです。


2004/10/29


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