――なんだかんだで、八年ぶりなんですね。
廊下を歩きながら、ふとそんな事を考える。……そう、七年ぶりなのだ。この屋敷の中に足を踏み入れるのは。
変わっていない。本当に、変わっていない。
この屋敷が元から古めかしい洋館だからなのか、それともここの住人達の努力の賜なのか、それはわからない。しかし、わたしがこうして歩いている廊下は、七年前の頃と何一つ変わっていないように思えた。
――それでも、七年と言う時間は確実に流れている。
心の内に生じたくだらない夢想を断ち切るべく、改めて心の内で呟く。
それは、どうしようもない現実。
変わっていないようで、この屋敷にも確実に変化の後がある。
……でもなければ、今、こうしてわたしの目の前を歩いている人物が、あのメイド服の女性以外であるはずがない。
「――どうかなされましたか?」
「…………」
その問いかけに前を見る。
目の前を歩く、老執事の姿。その身体から感じる、人あらざる者の気配。
これが、現実。
わたしにとって憎悪の対象でしかない存在――『死徒』が、この屋敷の中でのうのうと目の前を歩いている。それが、現実。
「……いえ。七年も経ったと言うのに、この屋敷は余り変わっていないのだなと思って」
「あの御方も、そのような事をおっしゃっていました。秋葉様の話では、翡翠様の八年に渡る努力があってこそのものらしいですが」
淡々と老執事は応える。
彼にとっては、それだけのこと。……だが、彼女達にとっては、それだけでは済まされまい。
八年の時を経ても、なお変わらぬ屋敷の中。翡翠さん――あのメイド服の少女は、何を思ってここを維持し続けたのか。
考えるまでもない。そして、それは何も彼女に限った事はではない。
なのに、彼は――。
(――何を今更、なんですけどね)
それでも、口元に力がこもる。手を、強く握る。
もっともらしい理由はある。だが、それは後付けのように思う。
……要するにわたしは、七年前に『彼』が選んだ選択を未だ許す事が出来ないでいるのだ。
もう、それに拘るだけの大義名分もないというのに。
――もう、わたしだけだというのに。
「……あれから、三ヶ月にもなるんですよね。『彼』は、どうしてますか?」
「最近は何も。少し前まで色々と事後処理がありましたが、その後は」
「要するに、この屋敷でぐうたらしているという訳ですか。世界を制しておきながら後は知らんぷり――とんだ『世界の王』ですね」
「元より、アルクェイド様のためならば」
老執事はこともなげに応じる。
粋な返し方であり、確かにその通りではある。
――全ては、アルクェイド=ブリュンスタッドが為に。
あの時、わたしの前で臆面もなく言ったように、彼にとって世界などその程度のモノなのだろう。
それは、『彼女達』をも例外ではない。
アルクェイドには、席を外してもらった。今頃は、本来わたしの案内をするはずの翡翠さんと買い物に出かけているはずだ。
これは、今日の来訪前に彼女自身に頼んでおいたこと。
この屋敷を居とする残り二人――秋葉さんと琥珀さんは、今は東京におり、ここにはいない。だから、今この屋敷にいるのは、『彼』と、この老執事以下のメイド達だけになる。彼らも、話によっては席を外させる事は可能だ。
――つまり、わたしは『彼』と二人きりで話す事が出来る。
アルクェイドにはひどい事をしたと思う。彼女もわたしの魂胆を知れば、決して席を外してはくれなかっただろうし。
騙した事に罪悪感がない訳ではないが、こればかりは仕方がない。
……多分。わたしのやろうとしている事は、彼女にとってとても許せるものではないだろうから。
「――様、よろしいでしょうか?」
「うん?」
今、わたしは居間へと続くドアの前にいる。
ドアの向こうから聞こえる『彼』の声。声の調子からして、まだ来訪者がわたしとは気が付いていないらしい。
人類史上初の偉業を成し遂げた偉人にしては、何というていたらくかと思う。それとも、そのような生活を送ってきたからこそ、殺意を持たぬ者に対しては鈍感になってしまったのか。
そんな所が、『彼』らしくもあり。
「今、珍しいお客様がおいでになりまして。――様にお目通りを願いたいと」
「珍しい客? ……俺の、知ってる人かな?」
「はい。よく、知っておられる方かと」
「……わかった。通してくれ」
怪訝そうな声。それでも、知っている相手と聞いて『彼』は促す。
これで、老執事をも巻き込んだ悪戯は成功した。
ドアを開けた老執事に続いて、私は居間へと足を踏み入れる。すぐに、居間のソファーで紅茶を飲んでいた『彼』の姿が目に止まる。
――わたしを目にした瞬間、『彼』は飲んでいた紅茶を吹き出しかけた。
後は、ただ絶句。悪戯の成功におかしさを覚えるが、同時にいささか驚き過ぎではないかと思う。
まぁ、それはどうでもいいこと。
これはあくまで悪戯で、わたしのやろうとしている事は残っている。何はともあれ――。
「せ、先輩……」
「こんにちは、遠野くん。三ヶ月ぶりですね?」
言葉を失った『彼』――遠野志貴。またの名を『皇婿(プリンス・コンソート)』志貴=ブリュンスタッドに、わたしはにっこりと微笑んでみせた。
『皇婿(プリンス・コンソート)志貴』後日談(?)SS
【弓、降ろす時】
変わっていないと言えば、変わっていない。
変わってしまったと言えば、文字通り全てが変わってしまった――今の遠野くんを評する場合、これが一番妥当だと思う。
「――ったく、先輩も人が悪いなぁ。わざわざ不意打ちで来るなんて。……いつ、こっちに戻ってきたんですか?」
「こっちに戻ってきたのは今日です。数日前にようやく身元の整理がつきまして、借りていたアパートを引き払って、こっちに戻ってきたんです。実は、ここに来る前に少し寄り道もしちゃいました」
「寄り道……まさか、『メシアン』とか?」
「ええ。事前に借りておいたマンションに荷物を置きに行って、その足で。やっぱり、あそこのカレーは絶品です」
昔の知り合いというのは楽だ。最初の顔合わせさえ間違いがなければ、簡単に昔に帰る事が出来る。
力説するわたしに、苦笑を浮かべる遠野くん。あの頃にも繰り返したやり取り。
……やり取りだけではない。わたしが幾らか老けていなければ、七年前までとまるで変わらぬ光景になっているだろう。
何故なら、目の前の人物は七年前までと殆ど変わっていないのだから。
見た目は、ほとんど変わっていない。衣服こそ私服のように着倒していた学生服ではないが、外見はまるで同じ。七年前――十八歳の頃のままである。
考えてみれば、皆で海に行ったりした時は流石に学生服ではなかったし、そういう意味では衣服も替わって点とは言えないかも知れない。
七年前と明確に違う点はただ一つ。その瞳。
――笑みで細められた目の内に宿る、紅い瞳。
紅い瞳……それは、人ならざる者の証。
「それにしても……結局、ここに留まる事にしたんですね?」
辺りを見回し、一言。遠野くんは、それに苦笑。
「意外ですか?」
「いささか。てっきり、例のマンションでも使うんだろーなーと思っていたんですよ。遠野くんにとっても、彼女にとっても思い出の場所ですし」
「ええ。それも、考えたんですけどね……秋葉の奴が許してくれなくて」
浮かべるのは、困ったような笑み。
これも、七年前と同じ。あの頃の遠野くんも、秋葉さん――自分の妹の話になると必ずこんな表情を浮かべた。
「秋葉さんですか?」
「ま、これぐらいは仕方ないかなと。散々心配かけてきたんだし」
「これも七年間の埋め合わせ、ですか?」
時には、横暴としか思えない所も見られた秋葉さんの我が儘。
それがその想い故とわかっていても、行き過ぎだと思えた事が幾つかある。
ても、遠野くんはそんな時も顔をしかめるぐらいで、その我が儘に対応していたように思う。場合によっては、最愛の女性との時間すら犠牲にしていた程に。
この屋敷での立場もあったのだろうけど、遠野くんは彼女もまた好きだったのだ。
――純粋な優劣については、最早言うまでもないとして。
「そんな所です。正直言って、秋葉の願いを全てかなえてやれる訳じゃないから、出来る事ぐらいは」
「……それは、琥珀さんや翡翠さんにも言えるんでしょうね」
問いかけはしない。ただ、一人合点した風に。
遠野くんは、これには無言。言うまでもない、という事だろうか。
琥珀さんと翡翠さん――この屋敷に住む、割烹着の少女とメイド服の少女。秋葉さんと同じく、あの頃の遠野くんにとって大切なもの『だった』家族。
……いや、もう『少女』ではないか。彼女達は遠野くんと同程度の歳だったはずだから、七年も経てば最低でも二十を幾つか超えているはずである。これは、秋葉さんも例外ではない。
――そう、もうそんな歳。皆の間に等しく流れた時間がどれだけのものかをはっきりと認識させる。
と、不意に遠野くんが思い出したように口を開いた。
「……そう言えば、先輩こそ埋葬機関に復職しなかったみたいですね?」
「ええ。全てが片付いた――あそこを離れた理由が無くなったからと言って、再びナルバレックの元に戻る気はなれませんでしたから。……どうせ復職を希望した所で、あの女の事だから散々にイビった挙げ句に突っぱねそうですし」
これは、嘘ではない。元より復職する気はなかったし、あのナルバレックが今更わたしを手元に置きたがるとも思えない。
となれば、自ずと彼女の応対も予想が付く。向こうから来たならともかく、自ら出向くなど考える気にもなれなかった。
ただ、これだけだと『引退』するように聞こえるので、今後の予定を付け足しておく。
「……勿論、足を洗う気はありませんよ? いくら遠野くんが裏の大物達を全て滅ぼしたとは言え、下っ端の死徒や魔の眷属達はまだまだ世界に散らばっている。個人ですから自ずと範囲は限られてきますが、わたしなりにやっていこうと思っています」
「…………」
複雑そうな、遠野くんの顔。
足を洗う気はない――その意味に気付いたらしい。……まったく、こんな所は変わっていない。
恋人でもあるまいし、そんなに気を配られてもむしろ困る。
――第一、あの頃から足を洗うなんて、考えた事もないのだ。これが、わたしの『贖罪』なのだから。
流石に口を挟むのは躊躇われたのか、遠野くんは別の疑問を口にする。
「でも、こちらではどうやって食べていく気なんですか? この七年間の先輩の行動を鑑みるに、蓄えがあったとは思えない。それに、そんな仕事がいつでも――」
「――その辺りについては、ご心配なく」
遠野くんの問いに、私は微笑む。
「実は、『メシアン』でバイトとして雇って貰える事になったんです。世を忍ぶ仮の姿としては、妥当な所でしょう」
「『メシアン』って……あそこで?」
「ええ。もう七年も経つのに、店長さんもわたしの事を覚えていらして。先程寄った時に職を失って困っていると言ったら、丁度バイトが欲しいからと」
この辺は、幸運と言う他無い。もし『メシアン』に寄っていなかったら、今の質問には言葉を詰まらせなければならなかったのだから。
しかも、都合良く見つかったバイト先があの『メシアン』。
別の意味でも、頬が緩むというものだ。
「嬉しそうですね」
「勿論ですよ。何せ、『メシアン』には幾度となく通いましたけど、結局あの味は出せませんでしたからねー。当時は色々あってバイトで入る事も出来ませんでしたし。巡り巡って、こうしてあのカレーの秘密を探れると思うと……」
「……ただのバイトに秘密を教えるぐらいなら、先輩は七年前の時点で探り当てていたと思うけど?」
「――ほっといてください。夢を見るだけならタダなんですから」
身も蓋もない指摘に素で返す。……まったく、こう言う所も八年間経っても変わっていない。
半目を向けてやると、遠野くんは困ったような笑みを浮かべる。あの頃にも、よくあったやり取り。彼は、いつも一言多くて――。
――と、遠野くんの笑みが消えた。
「……ま、世間話はここまでとして。ええと、先輩?」
「なんですか? 急に?」
不意に、雰囲気が変わる。わたしは、まだ気付かない振りをして問い返す。
七年前なら、彼はほぼ間違いなく言葉を濁す。しかし、遠野くんは、わたしの目を見たまま淡々と続けた。
「――なんで、ここに来たんですか?」
一瞬、沈黙がわたし達の間に降りる。
わたしには、その言葉は別の意味にも聞こえていた。
そう、『もう、やめませんか』――と。
「……これが、七年の歳月による成長というものでしょうか? 以前の遠野くんなら、もう少しは付き合ってくれたと思うんですけど」
「逃げて片付く話なら、それも考えますけどね。……先輩は、そんな人じゃないから」
「おやおや。聞く人によっては、勘違いされてしまいそうな言い方ですね?」
少しおどけてみせるが、遠野くんは応じない。
……もう、逃がしては貰えないようだ。彼は、ここでの答えを望んでいる。
文字通り、それがどんなものであろうとも。
しばらくの間を置いて、わたしは苦笑混じりに口を開いた。
「……実は、遠野くんに伝えたい事がありまして」
「伝えたい事ですか?」
「ええ。――七年前に遠野くんが選んだ選択と、今の遠野くんについて」
遠野くんの表情が硬くなる。それが何を意味するのか、幾らか察しは付いているのだろう。
……だけど、誰も面向かって言ってはいまい。
考えようには余りにも身勝手な意見。正論であるが故に、彼の思いをこれ以上ないほどに踏みにじる、そんな考え。
誰が言うだろう。
彼の周りにそんな人は、そんなひどい人は誰一人としていないというのに。
――だから、これはわたしの役目なのだ。遠野くんと関わる人達の中で、最もひどい人間であるわたしが。
わたしは微笑む。何でもない風に、告げる。
「単刀直入に言いますよ? ――遠野くん、貴方は最低な人です」
「――――」
瞬間、遠野くんの表情が消えた。
微笑みを顔に貼り付けたまま、嘲るように続ける。
「……まさか、よかったよかった――なんて思っているんじゃないでしょうね?」
思っていたのかも知れない。確かに今の彼は、とても幸せなのだから。
「アルクェイドと共に生きるために死徒になり、身の回りにいた全ての敵をねじ伏せ、七年間もほったらかしにしていた秋葉さん達とも和解し、こうして呑気に暮らしている。……これで、ハッピーエンドだと本気で思ってはいないでしょうね?」
「う……」
「――だとしたら、笑わせないでください。一番そう思ってはいけない貴方が、単純にそう考えていただなんて、とんだお笑い種です」
嘲るように、馬鹿にした風に。ただ、彼の脳裏にあったであろう都合の良い考えを否定する。
「……何様のつもりですか? 死徒になった貴方が、今更秋葉さん達と共に暮らそうなど。老いていく私達を尻目に、アルクェイドと共に永遠の時を生きると決めた貴方が」
そう、遠野くんはもう人ではない。
それが彼が七年前に選んだ選択。あのアルクェイドと永遠の時を生きるために、遠野くんは自ら人である事を捨てたのだ。
奸計を持って死徒になり、自ら『親』を殺害し、アルクェイドに仇なす全ての敵を滅ぼし、あるいはねじ伏せてきた。
その行為そのものは、最早尊敬に値する。成人すらしていなかった極東の少年が、わずか七年で、『世界の王』として君臨したというのだから。それも、己の愛した女性のためだけに。
――だが彼は、見苦しくもここに戻ってきた。全てを捨てておきながら、図々しくもそれを全て拾い上げようとして。
その行為は、滑稽ですらある。
……それは、自らの選択を理解していなかったという事なのだから。
「秋葉さんも、琥珀さんも、翡翠さんも。自らが老いていく中、ただ一人老いる事のない貴方を見てなんと思うでしょうか?」
ここにいる者達はみんな人に過ぎない。人を捨てた遠野くんとは違う。
時はゆっくりと、しかし確実に人の姿を変えてゆく。この八年で、秋葉さん達が少女から女性へと成長したように。少年の姿のままなのは、遠野くんだけ。
今はいいだろう。だが、十、二十年と経てばどうなるだろうか? 成長は老いへと変化し、美しかった妹が、若かった家族が、そして友人達もまた老人へと変貌していくというのに。
わたしは続ける。決定的な、あるいは自身の死も覚悟せざる得ない一言を告げるために。
「彼女達は妬み、あるいは憎悪だって抱くかも知れない。何故、貴方だけ――と。その隣には、同じく老いる事のないアルクェイドがいるのだから尚更です。貴方だけが、幸せを甘受している……いずれ、みんな貴方の前から去るでしょう。これは賭けてもいい」
「…………」
「つまり、貴方のやっている事は自己満足に過ぎない上に、秋葉さん達を更に、長期的に苦しめようとしているだけなんですよ。――それとも何ですか? それを回避するためにいずれ彼女達も不死にするつもりとでも? 自ら彼女達の血を吸うなりして」
「――――っ!」
始めて、遠野くんがソファーから腰を浮かした。
……でも、それ以上は動かない。やがて、彼は再びソファーに腰を下ろす。
表情を見る。遠野くんは何かを堪えるような、内に生じた激情全てを無理矢理封じ込んだような表情を浮かべていた。
しばらくの間を置いて、わたしは小さく息をついてから口を開いた。
「……少し、感心しちゃいました。逆上するどころか、声を荒げすらしないなんて。拳打や斬撃はともかくとして、胸ぐらを掴まれるぐらいは覚悟していたのですが」
「…………」
「わたしを睨んだところで、現実は変わりませんよ?」
無言でこちらを見つめる遠野くんに、わたしは淡々と告げる。少なくとも、嘘は言っていない。
これらは、全て容易に思いつく事柄に過ぎない。
ただ、誰もが言わなかっただけ。
誰もが薄々その事に気付きながら、誰も言おうとしなかっただけ。
言えば、今の幸せが揺らぐから。
――だけど、それは現実から目を逸らして逃げ回っているだけに過ぎない。
「……その通りですね、先輩」
視線を落とし、遠野くんは呟く。
「全てを片付けたら、戻ってくるつもりだった――そんな話、実際には通りはしない。俺は、あいつのために人をやめたんだから。もう、秋葉達と共にある事なんて出来ないのに」
「なのに、貴方はここへ帰ってきた。以前の幸せを取り戻すために。それが続かないのに気付いたからこそ、貴方は人をやめたのに。ただ一人の女性の幸せのために、貴方は秋葉さん達を捨てたのに」
「俺がここにいられるのは、秋葉達が許してくれたから――なんですよね」
「ええ。貴方はそれだけの事をしながら、彼女達の想いにつけ込んだだけに過ぎません」
冷徹に告げる。それは紛う事なき事実だから。
あれから七年後、今更のようにここへ戻ってきた遠野くん。考えようによれば叩き出されても、拒絶されたとしても文句は言えない。彼は、秋葉さん達を捨てたのだから。
遠野くんがここにいられるのは、秋葉さん達もまた彼がここに留まる事を望んだからに過ぎない。
言い方を変えれば、ただ彼女達の想いにつけ込んだだけに過ぎないのだ。
やがて、遠野くんがわたしを改めて見つめる。
「……先輩は、それを言うためにここに来たんですか?」
「誰かが、一度は言わなければならない事ですからね」
口元を緩める。ここまでくれば、もう表情を作る必要もないだろう。
「言わなくてもわかる事はある、と言いますけど、やっぱり言われなきゃわからない事もあるんです。人は、自分に都合よく考えたがります。時には、幻すら見るほどに。遠野くんが、そうならないとは限らない」
「……そう、ですね」
「現に、今のわたしの話に遠野くんは逆上しかけた。覚悟を決めていたのなら、言われたところで動揺するはずもないというのに」
わたしは、そこで苦笑を浮かべる。
「本来なら、当事者達が口にすべき事なのでしょうけど、秋葉さん達にそれを期待するのも酷でしたから。つい、お節介を焼いちゃいました。元々七年前のあの頃から、こんないや〜な役どころはわたしのものでしたしね」
「先輩……」
そう、わたしの役どころは遠野くんと、あの純白の吸血鬼の運命を決めたあの事件から変わっていない。
わたしは遠野くんの前に立ちはだかるお邪魔虫で、彼の聞きたくもないような事をべらべらとしゃべり、時には力尽くで邪魔する。更には、彼を自分のために利用すらする。
……だから、これはわたしの役目。
誰もが嫌がるこの話を、遠野くんに伝えるのも。
「……先輩、俺はどうすればいいのかな?」
やがて、遠野くんは困ったような表情で口を開いた。
「どうすれば、ですか?」
「アルクェイドを選び、共に生きる事を選んだのに、俺はここに帰ってきてしまった。秋葉達の事を、一度たりとも忘れた事なんて無かったから。全てが片付いたら、戻るんだって決めていたから。もう、元に戻る事はないのがわかっていたのに」
「…………」
遠野くんが、秋葉さん達の元を去った理由。わたしも、それを知らない訳ではない。
全てはアルクェイドのため。それは確か。しかし、その中に、ほんの少しでも秋葉さん達が含まれる事もまた事実だったのだ。
当時、彼を取り巻いていた異常な環境。自分がアルクェイドと共にある限り、いつか自分の大切な人達にも危害が及ぶかも知れない。その想いが、遠野くんが『世界』をも敵に回した理由だったのだから。
だから、遠野くんはここへ帰ってきた。全てを片付けたからこそ、またやり直すために。
――最早、全てが元通りとはいかない事を知りながら。
その気持ちはよくわかる。でも、これに対して言うべき事は一つしかない。
「――遠野くん、馬鹿にしているんですか?」
「えっ?」
小馬鹿にしたように、告げる。遠野くんも、流石に呆気に取られたように私を見つめる。
「常識的に考えてください。今更、頭を抱えようが後悔しようが無駄なんです。そんな問題で何をうじうじと悩んでいるんですか」
「そんな問題って、簡単に――」
「――簡単じゃないですか。例え苦しかろうが、それは全て遠野くんの責任なんです。アルクェイドと生きる事を選びながら、最早同じ時を生きる事も出来ないのに再びここへと舞い戻り、秋葉さん達の想いにつけ込んで再び同じ場所に収まった。そんな貴方のご都合主義のツケなんです!」
はっきりと言ってやる。
アルクェイドと共に生きるために、遠野くんは人である事を捨てた。
なのに、遠野くんは秋葉さん達ともやり直すためにここに戻ってきた。もう、彼は秋葉達と別の存在だというのに。
そこに無理が出るのは当然。解決方法なんてありはしない。
――第一、そこで解決しようと考える事自体が虫が良すぎるというものだ。
「なんですか? 遠野くんはただの気紛れで、単なる埋め合わせをするために帰ってきたんですか? ――違うでしょう? また、一緒に暮らしたかった。もう、どこにも行く気はなかった。だから、ここへ帰って来たんでしょうがっ!」
「あ――」
「貴方は、元は人でありながら自ら秋葉さん達の側からアルクェイドと共に生きる事を選んだ。彼女のために、一緒に永遠の時を生きると決めたのは遠野くんなんです。今更後悔するなんて、秋葉さん達への、アルクェイドへの冒涜です!」
全てに置いて、その程度の想いだったとでも言うのだろうか?
人である事を捨てた理由も、『世界』を敵に回した理由も、ここに帰ってきた理由も。 聞けば、遠野くんは間違いなく違うと言うだろう。……ここで同意してしまうような輩だったら、七年前で既に話は終わっている。
それ相応の覚悟があったからこそ、それ相応の想いがあったからこそ、彼はこうしてここにいる。
だから、遠野くんが取るべき行動は一つしかない。
「……遠野くん、忘れないでください。逃げないでください。貴方は、その道を選んだのだから。そして、元に戻る事はなく、大きな苦しみを伴う事を知りながら、見苦しくここに帰ってきたのだから」
「…………」
「ずっとずっと、忘れないで生きてください。選んだ道によって生じた痛みを抱えて生きてください。――それが、貴方が果たさねばならない『贖罪』です」
――そう、それが遠野くんが果たさなければならないこと。
老いていく大切な人達。その中で、自分だけは変わらない。
自らの身体が老いていく内に、その心には遠野くんへの妬みや憎悪が生じるかも知れない。あるいは、彼が目の前からいなくなる事を望むかも知れない。
でも、それから目を背けてはならない。それが、遠野くんの罪なのだ。
彼は、アルクェイドと共に永遠の時を生きる事を選びながら、七年前までのように秋葉さん達と暮らす事を選んだのだから。目の前にいる二人だけ、老い衰える自分達を尻目に生き続ける――彼女達に、そんな悪夢を見せつける事になるのを知りながら。
「……はい」
やがて、遠野くんは静かに頷いた。
「……先輩、ごめんなさい。それと、ありがとうございます」
「おやおや、わたしは謝られるのはともかく、礼を言われるような事はした覚えはありませんよ? いくら正論とは言え、あれだけひどい事を言ったのに」
続けられた言葉に、わたしはからかうように応じる。
それでも、遠野くんはゆっくりと首を横に振った。
「でも、先輩にそれを言わせたのは俺のせいですから。そして、俺は言われなきゃわからなかったと思うから」
「…………」
「だから、ありがとうと言わせてください」
そう言って、遠野くんはもう一度頭を下げた。
その姿を見ていると、つい笑みが浮かんでしまう。こちらは恩を売ったつもりなんて無いのだから、素直に流しておけばいいものを。
これで、遠野くんは余計な物まで背負ってしまった。こんな、意地悪な『先輩』の想いまで。
既に最愛の人がいるというのに、馬鹿みたいだと思う。他の女性の想いなんて、わざわざ拾ってまでして背負う必要なんてないというのに。
……でも、その姿を見ていてほんの少しだけ安心する。
――もう、遠野くんは人ではない。その中身も、昔の遠野くんとは違う。それでも、やはり彼は彼なんだなとわかったから。
どうやら、普段の物腰とこの辺りの不器用さは、このまま一生治らないらしい。
「……まったく。これじゃあ、イマイチ吹っ切れないじゃないですか」
「えっ?」
思わず、そんな事を呟いてしまう。
ちょっとした失策。遠野くんが不思議そうにこちらを見たが、あいにくこればかりは話す訳にはいかない。
わたしには、臆面もなくその眼差しに応じた。
「いえいえ、ただの独り言ですよ。お気になさらずに」
「そ、そうですか」
「――さて、と。では、わたしはこの辺りで失礼しますね?」
「って、先輩もう帰っちゃうんですか?」
妙な発言に続いて、唐突な帰宅宣言。流石に、遠野くんも戸惑いを露わにして問いかけてきた。
「何を不思議そうな顔をしているんですか? わたしの目的は、遠野くんが目を背けていた現実を秋葉さん達の代わりに突きつける事だとさっき言ったじゃないですか。それを済ませた今、ここに留まっている理由なんてありませんし」
「で、でも、先輩。もう少し経てば、買い物に行ったアルクェイドも帰ってくるだろうし、待っていたって……」
「いえ、それはまた今度の機会にします。こうして二人っきりで語り合ってる所に彼女が帰ってこようものなら、まぁたヤキモチをやいちゃうでしょうから」
引き留めに対し、暗に先日あったという『夫婦喧嘩』の事を匂わせてやる。すると、遠野くんもその時の事を思い出したのか露骨に顔をしかめた。
つい先日、とある豪華客船の上で起きた、『史上最悪の夫婦喧嘩』。
この事件の原因が、彼自身の迂闊な行動によるものだったのは既にアルクェイドから聞いている。
……これでよし。こんな言い方をしておけば、遠野くんもアルクェイドがこの場にいなかったのは、わたしが裏から手を回したからだとは考えまい。
遠野くんが黙り込んだので、わたしはそのままこの場を後にしようとする。
「では、わたしはこれで――」
「……どうかしましたか、先輩?」
廊下に面したドアへと向きかけていた足が止まる。
実は、この場を後にしようとしたその時、不意に脳裏にちょっとした悪戯が浮かんだのだ。
それこそ、こんな場でしか使えないような悪戯が。
「……遠野くん、後一ついいですか?」
「え。あ、はい」
振り返って問いかけると、戸惑いながら応じる。
わたしは改めて真面目な表情を作ると、遠野くんの方へ身体ごと向き直った。
……ふと思いついた悪戯。でも、これは悪戯ではない。
――正確には、これはわたしなりのけじめ。
「……これは、七年前に遠野くんがいなくなってしまったから、言いそびれてしまった事なんですけどね?」
「は、はい」
それは、一人『教会』を飛び出して、彼を追い続けたもう一つの理由。
わたしは遠野くんを真っ直ぐに見つめ、口を開く。
「言おうか言うまいかずっと迷っていましたけど、やっぱり言っちゃいます。――遠野くん。わたしは、貴方が好きでした」
「――――」
わたしの告白に、遠野くんは文字通り言葉を失った。
その顔と言ったら……カメラが手元にあったら撮っておきたいぐらいだった。まさに、『頭が真っ白になった』と言った表情。
悪戯としては、まさしく大成功の結果だろう。
……ここまで派手な反応をされると、わたしとしても複雑なものがあるけれど。
「……少し、驚き過ぎじゃないですか? 七年前のものなんですからもう時効ですよ?」
「い、いや、あの、その……」
「まぁ、いいんですけどねー。所詮、今年で三十三になるおばさんの告白なんて、聞いてる側にしてみれば寒いだけでしょうし」
確かにそれは事実なので、わたしとしても怒る訳にもいかない。
ただし、それではちょっとくやしいので、指摘すべき事は言っておく事にする。
「……ただし、一つだけ断っておきますけど、わたしはロアのせいで八年前まで老化が止まってたんですからね? だから、肉体年齢は今年でようやく二十五ですし、身体のラインもバッチリなんですから。この所、よく覚えておいて下さいよ?」
「は、はぁ……」
「――では、今度こそわたしはこれで。今度は、アルクェイドがいるときにお邪魔させて貰いますね?」
いまいち気のない返事だったが、それには触れないでわたしは今度こそ遠野くんから背を向けた。そのまま、ドアへと向かう
少し遅れて、慌て気味の遠野くんの声がかけられたので、これに一旦振り返って応じておく。……先の言葉が、わたしにとっても何でもない風に見せるため。
廊下を出る。ドア付近に控えていたあの老執事の見送りの元、屋敷を出、敷地を抜けて門をくぐる。
そして、遠野のお屋敷へと続く坂道に差し掛かって、ようやくわたしは足を止めた。
「……は、ぁ」
小さな、とは言い難いため息。流石に涙は出てこなかったが、胸の内が何だかポッカリ空いてしまったような気がする。
「……さようなら、わたしの恋。題を付けるとすれば、そんなところでしょうか?」
くだらない呟きで誤魔化してみる。
そう、わたしはずっと遠野くんが好きだったのだ。
あの不器用で、思いこんだら一直線で、そのくせ後で悩まなくても良いような事まで悩んでしまう、そんな彼の事が。
だから、許せなかったのだ。
アルクェイドを選んだのはいい。だけど、彼女の共に生きるためとはうそぶき、彼女の内にある気持ちを顧みなかった遠野くんがどうしても許せなかった。
……まるで、別人のようになってしまった彼の事が。
――まぁ、それも今日で終わり。
ずっと抱いていたこの恋は、悪戯という告白で終わらせてしまった。
この気持ちにケリを付けた以上、それを引きずる必要もない。
告白をあんな形でしてまったのも、神の巡り合わせと思う事にしよう。
元より、今日は『ささやかな復讐』という形で、この気持ちを吹っ切るつもりだったのだから。(これは、むしろ感謝されてしまったが)
「さて、明日からは頑張らないと」
これで、全ておしまいという訳ではない。
明日からは新たな生活があり、遠野くん達とも当分は顔をつきあわせる事になる。
彼らとの付き合いはまだまだ続く。
もうしばらくは、それを楽しませて貰うとしよう。
……ともあれ、当面の問題は明日から始まる『メシアン』でのバイトだ。
「――もうしばらく、お付き合いお願いしますね? 遠野くん」
最後に一言。そして、わたしはマンションへと戻るため、しっかりとした足取りで歩き出した――。
Fin
『後書き』
ども、てぃーげるです。
今回はEIJI・Sさんの作品たる『皇婿志貴』の後日談もどきを書かせて頂きました。
……ココでEIJIさんの好きなアルクではなく、シエルをメインに据える辺りが私めですけど。(笑)
一応、このお話はEIJIさんが当初予定していた『皇婿』のエンディングを元にしているのですが(みんながいなくなった後の志貴とアルク、と言う話だったそーで)、いかがだったでしょうか?
まぁ、扱うのが他人様の作品ですし、本人なりに頑張って『皇婿』におけるシエルを掘り下げてみたつもりなので、『皇婿』の読者の方々、『親』であるEさんにそれなりの好感が得られたなら幸いです。
では、今回はこの辺りで。
2004/3/8